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季刊誌「せおと」-fileNo.78-【特別寄稿】いのちの器(いれもの) 

fileNo.78【特別寄稿】いのちの器(いれもの) 

世間(娑婆)は人の知識・意見で満ち満ちている。セミが鳴いているようなものである(笑)。
命は私の所有物ではない。私の命ではなく命が私という姿になっているのだ。他の姿形でもよかったものを偶々[たまたま]の人である。

年が改まる。
日本人男性の平均寿命をとうに超えた。人としてこの世に生を受けて30,000日を超えたのである。
お~これはめでだい!と言っていいのかもしれないが「命長ければ恥多し」である。と言いつつ「長生きしなければわからないこともある」と負け惜しみ忘れない。
そこへいささか古いけれども以下の詩に出遭[であ]った。


老後無事   河上肇
 たとひ力は乏しくも
 出し切ったと思ふこころの安けさよ。
 捨て果し身の
 なほもいのちのあるまゝに
 飢ゑ来ればすなはち食い、
 渇き来ればすなはち飲み、
 疲れ去ればすなはち眠る。
 古人いふ無事是[こ]れ貴人[きじん]。
 羨む人は世になくも、
 われはひとりわれを羨む。


こんな風に在[あ]りたかった、いや在りたいといつも思う。私の3万日は、悔いの日々であった、いや日々である(笑)。

ありたい自分とある自分の間[はざま]でいつも揺れる。こう書いて「ありたい自分」と見る(気づく)目は仏の目ではないのか、に思いが至る。


優しくない自分を優しくないと見る自分、情けない自分を情けないと気づく自分、このもう一人の自分と表現される自分は単なる自分なのか。

日々の暮しの中で繰り返えされるささやかな嘆きを懺悔[ざんげ]。


「ありたい自分」と指し示めされるある種の光こそ仏なのではないか。懺悔の値打ちもないなどと自分を見捨ててはなるまい。
懺悔こそ宝なのかもしれない。
自己反省とか自分をみつめるとかという表現で人は「自分の力」で自分を修正したり向上させることができると思っている節[ふし]がある。果してそうであろうか。


仏典に説[と]く「他力(仏の力)」とは、この文脈で言えば、「もう一人の自分ではなかろうか。気づくのではなく気づかされるのである。今まで見通してきたものにフッと何かが届けられるのである。


曲解いや誤解を恐れずに言えば我[が](自力)の力を控えれば控えるほど(最大は無我)他力の出番が多くなる、そんな気がする。


「蟪蛄[けいこ]春秋を識らず」という言葉がある。蟪蛄とはセミのことで長い地中生活を終え、夏に地上に現われる。せいぜい二週間程の命であるが夏に生れて夏に死す。暑い夏に生れて夏に死ぬから夏の暑さを知っているように思うが、春秋を知らないから夏の暑さもわからない。


夏の暑さを知る者は誰か。人間である。秋の涼しさ冬の寒さを知るが故に夏を暑いと認知する。


人は今生[こんじょう](この世)に生れて今生に死す。夏に生れて夏に死すセミセと変わるところがない。とすれば人には前生[ぜんしょう](生れる前の命)も後生(死後)もわかるまい。


人の命の行末[ゆくすえ]を知る者は誰か。仏である。
これが仏典の教えるところである。

世間(娑婆)は人の知識・意見で満ち満ちている。セミが鳴いているようなものである(笑)。
命は私の所有物ではない。私の命ではなく命が私という姿になっているのだ。他の姿形でもよかったものを偶々[たまたま]の人である。


「人身[にんじん]受け難し、今すでに受く」である。この偶々を吉[きち]ととるか凶[きょう]ととるか。人はまたこの間で揺れる。


 初空と いふ大いなる ものの下    あきら

7年新春特別寄稿

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