『われわれが有限【人間】である時間は誕生から死までのせいぜい百年である。その間に出遇(であ)う人の数も多くはなく、出遇う関係も夫婦、親子、兄弟、友人知人とさまざまである。だからこそ出遇つた人は大事にせねばと思うのだけれども・・・』
いよいよ平成最後の新年である。私にとっても今年は節目の年となる。金婚式を迎える。広辞苑によれば「夫婦が結婚後、五十年目に行う記念祝賀の式」とあるが「五十年目に行う記念祝賀」の行う主体がハッキリしない。待てよ、結婚披露宴の主催者は結婚する一組の男女である。二人が事前に招待状を送り、招かれた人は「お祝い」持参で駆け付ける、という段取りである。スタートがそうだったとすれば金婚式もその延長線上にあると考える。つまり金婚式を迎える者が招待状を差し上げ宴を準備する。招待状を受取った人は、「お祝い」を持って参列する、と考えるのが真っ当な考え方だと考える。だが、とまた考える。そもそもどなたに招待状を差し出すのか、親兄弟?友人知人?子や孫。親は双方すでに亡く、兄弟姉妹も数少なく、友人知人も年老いて「お祝い」持参で駆け付けるほどの体力と財力のある人は見当たらず、孫は最初(はなっ)から論外とすれば子しか残らない。
ずい分昔のことだけど、市町村の社会福祉協議会あたりが主催する「合同金婚式」なるものがあったように記憶する。あの頃は金婚式迎えられる夫婦は珍しかったのであろうが人生百年時代の今は、お祝いするほどのことではないのかもしれない。しからば招待状は出さないこととするが、願わくばこの文章がひとりの子の目にとまり「よし、俺たちみんなで金出しあってお祝いやってやるか!」となることに一縷(いちる)の望みをかけよう。
宴のことはさて置くとしても五十年の歳月には感慨深いものがある。月並みな表現であるが赤の他人だった二人が縁あって暮しを共にして子を設け孫が生れるのである。親とは二十年、子とも同じ位しか共に生活しないとすれば五十年はケ夕違いにながい。世の中には「未婚」「離婚」「卒婚」という言葉もあって、ながいことを「善」とも「良し」とも言うつもりはないが、それでもなお五十年には五十年の重みを感じる。
そもそも二人の約束などで五十年は成就しない。結婚式で「共に白髪の生えるまで」と誓ったところで人生には病気もあれば事故もある。天災、人災の世を生きのびるには人の意志などあって無きが如しである。人生には人智を超える用(はたら)きがベースにあって、ここでもいのちの不思議に突き当たる。
金子みすずの詩に次なるものがある。
蜂と神さま
蜂はお花のなかに
お花はお庭のなかに
お庭は土塀のなかに
土塀は町のなかに
町は日本のなかに
日本は世界のなかに
そうしてそうして神さまは小さな蜂のなかに
これをパロディ化する。
私と無限
私は吹上のなかに
吹上は鹿児島のなかに
鹿児島は日本のなかに
日本は世界のなかに
世界は宇宙のなかに
宇宙は無限のなかに
そうしてそうして無限はこの私のなかに
われわれは有限であると同時に無限の中にある。時間も同じで「今」という瞬間も無限の中にある。歴史社会の中に生きていると同時に時間空間という限定のない無限の中に生きている。
有限のいのち【見えるいのち】は無限のいのち【見えないいのち】と共にあり、有限は無限に支えられて存在し終れば無限へ戻る。
われわれが有限【人間】である時間は誕生から死までのせいぜい百年である。その間に出遇(であ)う人の数も多くはなく、出遇う関係も夫婦、親子、兄弟、友人知人とさまざまである。だからこそ出遇つた人は大事にせねばと思うのだけれども「凡夫(ぼんぷ)【人間】といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の 一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと」と仏典が教える通りで思うにまかせない。なさけない!
露の世は 露の世ながら さりながら 一茶
平成31年冬季号より