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季刊誌「せおと」-fileNo.67-人間(ひと)から仏人(ひと)へ

fileNo.67人間(ひと)から仏人(ひと)へ

『「仏法は無我にて候(そうろう)」という言葉もある。あの人は我が強いというあの我である。我が時として自尊心、優越心、体面、意地、誇りなどに姿を変える。人が戦いを止めるほど進歩するには後どれほどの時間を必要とするのであろうか。』

 

これは実話である。とは言ってもある父親が語ったことだ。父親は息子と二人暮しである。

この冬の寒い日、父親がそこにあつたストーブを別の場所で使用するため持ち出そうとした。それを息子が「それは僕のものだ」ととがめたという。それを聞いた父親は内心「それをいうならこの家は俺の物だ」と言いたかったと我々夫婦に愚痴ったのである。

数日後、なぜだかこのことが夫婦の間で話題になったが二人の間で受け取り方がずい分と違っていたのに気づいた。何しろ「この子を育てたのは誰だ」と茶々を入れながら聞いたのでかなりあやふやな部分があったのである。

夫の言い分

息子が使っていたストーブを他所へ持っていこうとする父親をとがめたのであるから子が怒るのはむりないではないか。

妻の言い分

仕事をしている息子のところへ寒かろうと思った父親がストーブを持って来てあげたのに感謝もせず「それは俺の物だ」と所有権を主張する息子はけしからん、父親が怒るのはあたり前である。

そこで父親の再訪を待って確かめようということになる。

父親は語る。

二人共違うがやや夫の説が近いという。父親は使ってないストーブをある作業場所へ持って行こうとした。それを見た息子が「それは俺の物だ」と所有権を主張した。そこでどうすればいいか訊ねたら「貸してと言えばいい」と答えた。

貸してくれと言いたくなかった父親はすぐ「ニシム夕」へ走り自分のストーブを買ったという。二人共いい年の大人である。哀しい話である(笑)。

私はここで家庭の悲劇を書きたいわけではない。夫婦の聞きよう受け取りようのところが肝である。

何しろ我々【夫婦】はコタツを挟んで同時にこの話を聞いたのである。それがこの体たらくである。

私はこの目で見たあるいはこの耳で聞いたから間違いないとよく人は語る。自分の体験を基にことの是否や善悪を言い募る。自分を疑うことをあまりしない。

デカルトだったか、子どもの頃遠くに見える煙突をずっと丸だと思っていたが成長して見に行ったら四角だった。そこから「我思う、故に我在り」が生れたとか。

そんな大げさな話でなくとも個人の体験と称するものもそれほど確かなものでもないのかもしれない。

二月二十四日のロシアのウクライナ侵攻の報には心底驚いた。二十一世紀の現代ヨーロッパの出来事とは思えない。以前から米バイデン大統領が侵攻が近いなどと表明しているのを聞いて「言い切って大丈夫か!」と思っていただけに驚きは大きい。

紛争時に指導者が発する常とう句がある。自国民を守る自衛手段、人道支援としての行動で他に選択肢がなかった。そしてこう続ける。この紛争の責任は全て相手国にある。まるで追突事故扱いである。

グテレス国連事務総長はプーチン露大統領へ「人道支援を理由の侵攻は止めてくれ」と涙ながらに訴えるが届かない。

ロシア側は軍事施設をねらうので民衆に危害を加える意図はないと言うが意図はなくても人は死ぬ。

ウクライナのゼレンスキー大統領は国民総動員令とやらを発し成人男性の出国を禁じ「戦え!」と鼓舞する。

人はやっかいな生き物である。戦争を遠くに見ているうちは人の愚かさが観えて「仲良くしろよ!」と言うが自分の日常に戻ればそう単純ではない。

先程の親子といい、夫婦、親せき、隣近所等々争いの種は尽きない。人類の歴史は戦争の歴史でもあった。

何がこうも人を争いへと向わせるのか。

「我」に思いが至る。

あの人は我が強いというあの我である。我が時として自尊心、優越心、体面、意地、誇りなどに姿を変える。「仏法は無我にて候(そうろう)」という言葉もある。人が戦いを止めるほど進歩(?)するには後どれほどの時間を必要とするのであろうか。

もっともそれを人と呼ぶのかどうか。何はともあれ一日でも早くウクライナに安穏(あんのん)な日々が訪れることを願って止まない。

令和4年春季号より

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