『ことばの源流』 少し寒さが戻った3月中旬裏庭は春の落葉が始まっていた。前庭はスモモが花を終え白っぽい緑色の新芽に変っている。この時節の花は鮮やかなピンクの木瓜(ぼけ)の花、紫色の岩ツツジである。木瓜はここに移住して2年目の頃ガス会社の男性検針員さんが「八重咲きがあるよ」と小さい苗木2本を持ってきた。岩ツツジは美樹園の職員さんからのもらい物だ。
我が家の庭は誰かにもらった梅とかみかん、ボンタンなど数多くあるが月日が経つと「もらった」が消える。たとえば家内が同級生からもらったスモモは「ヒロシちゃんのスモモ」になる。そのスモモの隣の買ったサクランボの花が咲き始めている、一本でも実が成るとの歌い文句にひかれて求めた。実は成るには成るが熟れる頃にはヒヨドリがワッと集(たか)ってむしり取られる。今年は網でもかぶせてみよう。
春の落葉に戻る。落葉は秋を想像するが、くすのき・しらかしは新芽が出る直前、ゆずりは・やつでは新芽がのびてから落葉するという。秋の落葉は潔い。葉の色を紅(あか)黄色に変えてさらりと散る。十分に生き切った感じがある。
それに比べ春のくすのきは色もまだ緑が濃く、新しい芽に押し出されるように渋々落ちる感じがある。地面に落ちても風に吹かれてカサコソ音を立てて右往左往して未練がましい。偏見だろうか。でも、なぜか昔からその未練がましさが好きである。
蛇足であるが新芽がのびてから落葉するゆずりはは、子の成長を見届けてから落ちるとして縁起物扱いされるが、さてさてどちらがいいのか、この齢になると考え込む。と言って「いのち」は自分の所有物ではないので勝手に処理もできず悩ましい。
人間(いのち)は身体と精神(こころ)と「ことば」で成り立っているという。こころはことばで育つというから切り離せず、どこか相互作用的なところがある。孫たちや孫の仲間を観察している【こっちも見られているけど】と楽しいことがある。
3月3日薩摩川内市に住む娘家族を訪ねた。2歳と4歳の子に連れられて石が積んである近くの遊び場へ行った。そこへ隣家の幼稚園年中の女の子がやって来て「ここは子どもの秘密基地で大人は入ってはいけない」と言う。「はい、はい」といいながら2歳の子を連れて退散しようとすると「だって年寄りがケガでもしたら大変でしょう」と労(いたわ)りの言葉でフォローされた。
「ことば」はほんとうに不思議である。ことばを修得していく子どもの過程も不思議である。大人は、子どもは大人の真似をしてことばを覚えると簡単にいう。そりゃそうだ。真似の出来ない耳の不自由な児は、ことばの獲得が難しいのだからそうに違いない。けれどもっと複雑なメカニズムがありそうである。
人は誰でもことばの中に生れる。父が話し、母が喋(しゃべ)り、祖父母や地域の人々が日夜語る「ことば」の中に生れる。生れた土地(故郷)でことばを学ぶ(真似ぶ)。
抱いて乳をくれる人から「私がママ(母さん)よ」と繰り返され、家の側を流れる水を川、裏にそびえる高い土地の塊を山と教わる。名を覚えるたびに世界が拡がる。
この世界は「ことば」で出来ている。また、ママということばと共に母親が、山という名で生れ在所の山が目の前にありありと見えるのである。子どもにとって「ことば」は記号ではなく実物そのものである。その昔、ある人から「人はそれぞれ辞書をもっている」と聞いたことがある。母とは語るその人の母であり、山とはその人の故郷の山なのである。
人は自分の経験をことばにする。辛い、悔しい、悲しい、時にはうれしさ楽しさもある。折々の気持ちを自分のこころに織り込み、また語る。語るとは必ずしも他人に吐露することではない。自分自身にも語るのだ。そうして自分のことば、自分の物語を育てる。
「人が環境をつくり人は環境によってつくられる」と言うが、「人がことばを育て人はことばによって育てられる」と言っていい。
詩人大岡信はその著「言葉と人格」で次のように述べている。「言葉の修得は、単に意思の伝達手段の修得といった程度のことにとどまらず、一人の人間の人格全体の問題に根源的にかかわりをもっているということを、はっきり自覚する必要がある。 ~中略~ 人は言葉によって意思を伝達するというとき、じつは意思以上に、人格全体を伝達するというべきなのである。」
心してことばに耳を傾けたい。
金銀の 木の芽の中の 大和かな あきら
平成28年春季号より