特別養護老人ホーム美樹園 | 社会福祉法人南陽会鹿児島 谷山 老人ホーム 特別養護老人ホーム

季刊誌「せおと」-fileNo.019-いのちに終りなく

fileNo.019いのちに終りなく

『いのちに終りなく』 晩秋の風情は赤く実った柿の実にある。稲の収穫も終り、野山も色づく頃からその存在感が増してくる。食欲の秋は人間に限らないようで、どんぐり類やせんだんやくろがねもちに小型中型の鳥が群がる。とくに師走の空に映える柿には目ジロ・すずめ・ひよどり・カラス等が入れ替りたち替りしてつつく。私の書斎(一度でいいから言ってみたかった、ただの6畳和室)から隣家の柿の木が窓の3分の1を占めるように見える。柿の木を眺めていると想いは幼いころの生れ在所へととぶ。

在所は川内川の支流のひとつで、ほぼ河口近くで合流する高城川の上流である。何しろ大晦日に夜逃げしてそこに住みついた一族と語り継がれるだけあって相当な山奥である。川の流れに添って田が拓かれ、右岸左岸に家がある細長い集落で、その最上部が私の在所である。V字谷の家は陽の昇るのが遅く沈むのが早い日照時間の短い家だった。50戸位の集落の川下から三軒目が母方の祖母の家で、物心ついた頃には耳の遠い伯父(母の兄)と二人暮しであった。軒先の低い小さく暗い家でこども心にも豊かでないことが感じられた。けれども庭先には小みかんの大木(そう観えた)があり畑地の周りには甘柿・渋柿の木が何本もはえていた。正月訪ねると軒下のほし柿がもらえ、庭先の小みかんはいくらでも食べられることがうれしかった。戦後昭和20年代の貧しいころである。

ほし柿の甘さは生の果実とは違う甘さ(砂糖類がとても貴重な時代だった)がなんともいえなかった。そんな郷愁にかられて数年前からほし柿を作っている。暖かいせいかカビが生えたりするので軒下を東とか北とかに変えたりして今秋はカーポートの軒下につるしている。風通しがいいのか順調にほし柿になりつつある。ただ近所の人達が「野に柿や木の実があるうちはいいが、鳥たちがそれらを食べ尽くした頃が危ないなあ!」とうれしそうに言う。留守中に根こそぎということもあるらしい。

あの頃、柿やみかんは根こそぎ獲ることは禁じられていた。子どもが取って食べるのはかまわないが、果樹に応じて実を残せと諭された。それが鳥の取り分というか分け前であったと知るのはずっと後のことである。今思えば涙が出るほど貧しかったのに、鳥たちへの優しさは十分にあった。もっとも今では渋柿を好んで獲る人はなく、まるまる鳥たちの取り分である。ひょっとしたら貧しさが優しさを育むのかもしれない。その祖母は小学6年、同居の祖父(父の養父)は中学2年の時に亡くなるが少しも泣けなかった。そんな自分には人の情というものが無いのではと心配していたが、高校2年の夏母が亡くなると大声をあげて泣き、泣けた自分にほっと(変な心情ですね)したことを憶えている。

話は少し変る。宗教にまったく関心のない人や宗派の違う人には分かりにくいかもと思いつつ書き進めるが、仏教の浄土真宗・真宗の各派にとって来年(平成23年)は宗祖親鸞聖人の没後750年にあたり750回大遠忌という大きな大事な法要が執り行われる。それに合せて京都の本山、各地の末寺は準備に余念がない。

母が亡くなったのは昭和34年夏のことであったが、その2年後(昭和36年)は親鸞聖人の700回大遠忌法要があり(この頃の私は寺だの法要だのにはほど遠かった)、父は在所の寺の団参(団体参拝)で本山へ詣でた。その本山詣りの荷物の中に母の位牌もあった。それは旅支度の時に見たのではなく、旅から戻った風呂敷づつみであった。はたち前で夫婦愛だの絆だとか的感動があったわけではないが妙に鮮明に残っている。それからほんの数ヶ月後に父も急死する。数え年55歳であった。その二週間後に前出の伯父も逝く。あの頃葬式には不自由しなかった。集落の人総出の手作りの葬儀であった。

あれからおおよそ50年、私の所属する寺でも来年の750回大遠忌へ団参すべく準備は進んでおり私も参加する(つもり)。父が50年前詣った本山へ行ける、行けたら何かしら報告(父へ)できる気がする。家内は「私の位牌でも持って行く?」などと憎れ口をたたいているが、こっちが位牌になっている可能性だってある。身体のいのち(命)はいづれ終るが魂のいのち(寿)に終りはない。

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