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季刊誌「せおと」-fileNo.021-宗教心

fileNo.021宗教心

『宗教心』 仏壇を買おう!なぜ、そのような思いに至ったのか、今ではよく思い出せない。2番目の子が生まれて間もなくの頃であった。私は次男であるから仏壇に置く親の位牌があったわけではない。特に神や仏にすがらなければならないほどの悩みがあったような記憶もない。ただ、人事異動先が仏壇の町川辺の隣り街であったことは確かである。その頃の私は30代前半の若僧で宗教への関心はほとんど無く、神社仏閣へお願い事をする人は、信念のない人位に思えていた。それが突然「仏壇を買う」になったのである。転勤族だからなるべくコンパクトな物を、貯えはほぼ無く給料も少ないので安い物を、と川辺町在住で職場の先輩にお願いしたら中古があるという。「中古!」と最初びっくりしたが、車と同じで新しい仏壇を売る時古い物を下取りする、で納得した。代金5万円。30数年前のことで、給料の半月分を超える額であったと思う。今にして不思議なのは家内が反対した記憶がないことである。ある意味不要不意の物だから何らかの反応があってもおかしくなかったと思う。

冒頭でよく思い出せないと書いたが、子育てに仏壇が必要である、と思ったのだ。なぜ仏壇なのか。親が拝む姿を子たちにみせたかった。親(人)よりも大きい存在があることを感じてほしかった。単純な発想であったと今思う。信仰も信仰心もないのに、ただ形を整えたにすぎなかったのだから。でも日本には「形から入る」といういい言葉がある。

仏壇の目的であった子ども3人も全員30代になったが、そのお陰で優秀で立派な社会人になったわけでもなく、信心深い大人になったわけでもない。もっとも、ここまで無事に育ったことがお陰さまですよといわれれば返す言葉はない。けれども無事に育つこと、優秀であること、立派な社会人となることを祈願する為に仏壇を買ったのではない。人を超越する大きな存在を感じてほしかったのである。先に単純と書いたように、当時の私には理論(宗教あるいは宗教教育の必要性等)などはなく、ただの直観であった、とその後の自分の歩みを振り返り思うことである。

しかし、あの直感はあながち間違いではなかったと秘かに自負している。あの頃は経済成長の絶頂期で、豊かさ(幸福)とは物質的なことであって、精神(心)とか宗教心とかには思いが届かなかった時代だったような気がする。もっとも日本は明治維新以来「宗教の授業」は公教育の場では行われていない世界でも数少ない国の一つであるらしい。それはそれとして日本は昭和2.30年代に比べて経済的に豊かになった。では日本人は皆幸福になったのであろうか。今年の4月27日に発表の内閣府調査(4月28日南日本新聞記事)によれば、自分は幸せと感じている人の割合は、30代の61%をピークに年齢と共に低下し、70歳以上では41%という。もちろん幸福は外にはないから山ほどの財貨に囲まれていようと(残念ながら囲まれたことはないが)幸福なんか得られない。なぜか。身体的いのちには限りがあるからである。生を受けたものは必ず死ぬ。死の不安をかかえたままで安心(幸福)はあり得ない。日々のいのちの存続や終了の権現(力)は人間の側にはない。私(達)の日々のくらしは人の力の及ばない土台の上で営まれている。その事実のところを「生かされて在る」と表現している。

現代人は宗教(派)のことを古臭い・非科学的・前近代的でうさん臭いという態度を取りたがる。ほんとうにそうであろうか。宗教は何かを闇雲に信じることではなく、人智の及ばない力に覚醒することである。事実を事実として認知するだけのことである。宗教が何の役に立つのかと問う人がある。う~ん、社会生活と呼ばれる日々の暮らしの中では役に立ちますまい。けれども死はこの社会生活の人間の輪から離れて、一人で引き受けていかなければならない絶対孤独の世界である。その時、ひょっと用に立つかもしれない。その程度のことである。

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