『言霊(ことだま)』 第22回冬季五輪ソチ大会は、日本時間の2月26日未明に閉幕した。日本選手団は歴代2位、海外では最多の8個のメダルを獲得した。また、日本の冬季五輪メダリストの最年少(平野 歩夢・銀)、最年長(葛西 紀明・銀)記録を塗り替えたという。
私が残念だったのは、ジャンプ女子の高梨沙羅(4位)とフィギアスケート女子の浅田真央(6位)がメダルに届かなかったことである。その浅田選手のSP・トリプルアクセルの転倒で森喜朗元首相(東京五輪組織委員長)の発言「見事にひっくり返った。あの子、大事なときには必ず転ぶ」(平成26年2月21日、南日本新聞)と評した事が話題(問題)になった。翌日の同紙で「私の意見と全く違う。女子フィギア団体戦で戦略を間違えたと指摘したかった」と弁明したが各界からのバッシングはかなり激しかったらしい。
私は森元首相を非難するつもりで書いているのではない(もちろん弁護するつもりもサラサラない)。
人が何かを語る時、その言葉の中に語る人の心情が含まれている。語られる言葉が活字になるとその心情が抜けたり落ちたりする。もっとも語られる言葉を直接聞いても、その心情が全て伝わるとは限らない。
「話を聞くも上手下手」と俚諺にあるように、聞き手も責任ある聞きようが大事になる。また、話し手は聞き手に最悪の解釈をされてもいいような慎重な語りが必要になるだろう。良寛さんの戒語「ことばは惜しみ惜しみつかうべし」が身にしみる。
と、ここまで書き並べたが今回の私の主題はこれからである。それは主に政界での発言にある「個人的見解」という表現である。私の心情から書かせて頂くと非常に腹立たしいのである。具体例がある方が分かり易いと思うので、今年NHKの会長に就任した籾井(もみい)勝人氏の発言をたどって申し上げたい。
今年1月25日の就任会見で従軍慰安婦について「どこの国でもあった」などと発言し、問題視されたので、直後に「個人的見解であった。視聴者、各方面にご迷惑を掛けた」として撤回したという。その後1月28日NHKの浜田経営委員長が経営委員会で「公共放送のトップとしての立場を軽じた」として籾井会長を注意し、1月31日には国会の衆院予算委員会で誤解と迷惑をかけたと陳謝している。にもかかわらず2月12日の経営委員会で「私は大変な失言をしたのでしょうか」と発言して顰蹙(ひんしゅく)を買ったらしい。2月28日の続報によれば、前日の衆院総務委員会で従軍慰安婦問題などをめぐる発言について「考えを取り消したわけではないが、言ったことは取り消した」と持論を変えたわけではないとしている。
どう考えても二枚舌である。自分の発言にクレームがつくと「これは個人的見解である」と取り消すけれども、考えを改めるわけではない。自分の所属する団体や政党の公式見解ではない意見を述べたのが悪かったと言っているだけで、個人的には自分の考えが正しいと信じ、そう表明しているのである。この二枚舌族が政界や放送界等でやたら増殖しているようで気味が悪い。
世の中には本音と建前という使い分けがあって、久しぶりにあった知人から、「ずいぶん老けたなぁ!」と言われるより「いつまでも若いなぁ!」と言われるほうが心地よい。これはお互い承知の上でのやりとりで、暮らしの中の潤滑油なので全てを本音で語れなどと野暮なことを言うつもりはない。ないけれども、この二枚舌族には「あんまりじゃないけ!」とヤマイモを掘りたくなる。
言葉に対する敬意が足りない、と私は思う。言葉は社会生活上の単なる道具ではない。言葉がこころ(精神)を育てるのである。言葉への敬意を失うとこころが貧しくなる。
宗教哲学者大峯 顕(あきら)はその著書「命ひとつ-よく生きるヒント、小学館101新書」で「言葉をどう使うかが、とりもなおさずどう生きるかということにつながる。人がよく生きるということは、結局よき言葉を使うということです。よき言葉とは本当の言葉ということです」と語っている。
言葉に対する敬意は、他者や自分の尊重である。尊重は自重にはじまる、と聞く。心情(本音)とずれない言葉で生きたい。
『金星の まぎれこみたる 桜かな』 あきら
平成26年春季号より