『話すことも聞くことも覚えることも思い出すことも言葉あってのことである。考えて言葉にすると言うが言葉で考えるのである。言葉がなかったら喜ぶことも悲しむことも悩むこともできない。人間のあらゆる活動は言葉によって支えられている。』
お盆前後の長雨にはほとほとウンザリだった。まるで梅雨の忘れ物のようで迎え火送り火も空を見上げ傘を差し掛けての火つけで難儀した。世間は新型コロナがますます猛威を振るいオリンピックもパラリンピックも私の中では今いち盛り上がらなかった。
庭の草はここぞとばかりに生えほこり生垣のウバメガシは見苦しい程にのび放題である。
刈ろう!の思い 夜には芽生えるが朝には萎えてしまう。
そんな中唯一楽というか手抜きができたのはジャワ緋桐(ひぎり)の水やりであった。
七月十四日早朝、起‘きて居間のカーテンを弓くと庭に見なれた車があり、うごめく人影がある。
「あっWさんが来てる」声を上げると「えっ!」と力ミさんが飛び起きる。Wさんはカミさんの同級生である。
おはようございますと声をかけると起こしてしまったかなとの返事である。
何ごとですかと近づくと「例のジヤワ緋桐を持って来た」とすでに庭のあちこちに五木植えたと汗びっしょりである。
「例の?」を思い起こすと数日前「昨年植えたジャワ緋桐、何とか花を咲かせました。ほとんど根付いたので、一株差し上げます。」と写真添付のラインが届いたので「ありがとうございます。きれいですね!頂きます。」と返信した。
その続報は「ジャワ緋桐、生れて初めて見たのが、昨年の七月十五日散歩の途中、道端の雑木林の中に真紅の花が!万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん)ピッタシの情景でした。名前も知らない花で感動した」である。
てっきり一株、それも鉢で届くと思っていたので、いきなり五本植栽されたのにはビックリであった。
また「万緑叢中紅一点」ということわざに初めて出会いスマホで検索して「オー!そうなのか」と感じ入った。
ジヤワ緋桐
インドネシアのジャワ島原産。茎は直立し、高さは三~六m程になる。葉は卵型で三十cm程で対生。枝の先端に、円錐状の集散花序をつけ、鮮やかな橙赤色の花が咲く。花期、初夏~秋。
万緑叢中紅一点
多くの男性の中に一人だけ女性が入っていることのたとえ。略して紅一点。
植栽がすむとWさんはお茶一杯飲んで「水やりをよろしく」と言い残して帰った。
それ以来長雨になるまでセッセと水やりに勤めたのである。その甲斐あってジヤワ緋桐の皆さんは九月に入っても全員シャキッとしている。
ここまでペンが進んだ九月三日、買い物から戻るとテレビは菅自民党総裁の次期総裁選不出馬のニュースを流しており驚く。その直後の記者会見にもっと驚いた。発表された声明の最後の部分は「コロナ対策と総裁選の選挙活動には莫大なエネルギーが必要であり両立できない。コロナ感染防止に専念したいと判断した。」である。
私は思わず「嘘つき!」と呟いた。
日本の社会は今も昔も本音と建前を使い分ける文化があり、それをよしとする風潮があることも承知しているつもりである。それにしてもここまで本音と建前が乖離(かいり)すると笑う気にも罵る気にもなれず何か痛々しい感じさえ湧いた。
ここまで言い繕わねばならないのだろうか。もちろん「とても勝てそうにありませんので不出馬を決めました。」とモロ本音で語ればいいとも思っていないが、メッセージの棒読みや言い間違い、広島原爆記念日での読み飛ばしなど些か言葉に対する敬意が足りなかった気がする。
敬意は人に払う前に言葉に対して払う必要があるのではなかろうか。
言葉は単に意志伝達の道具ではない。我々と言っていけないなら自分は言葉の中にいる。言葉の中に生れ落ちてきたのである。
自分より先に言葉があったのだ【初めに言葉ありき】。
自分の心よりも言葉の方が広くて深いのだ【だから自分の心の醜さが分かる】。
話すことも聞くことも覚えることも思い出すことも言葉あってのことである。考えて言葉にすると言うが言葉で考えるのである。
言葉がなかったら喜ぶことも悲しむことも悩むこともできない。人間のあらゆる活動は言葉によって支えられている。
そもそも言葉がなければ人間ではないのである。
繰り返えすが言葉は人間の道具ではない。それが証拠に悲しい時に「悲しくない」苦しい時に「苦しくない」と叫んでも悲しみも苦しみも消えてはくれない。
「すべて言葉をしみじみといふべし。」は良寛さん戒語九十ヶ条の一つである。
涼風の とめどもなくて 淋しけれ あきら
令和3年秋季号より