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季刊誌「せおと」-fileNo.010-命の大切さを「教える」ことができる人はいるのだろうか

fileNo.010命の大切さを「教える」ことができる人はいるのだろうか

『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の心』

17歳の少年による殺人事件があった。実母を殺しその首を切断する。その首をショルダーバックに入れ、それを持って警察に自首したと報道された。その少年は「(殺すのは)誰でもよかった」と言ったとのことである。誰でもよかったは不気味である。何かのことで【母親が】邪魔だったとか憎かったと言うのであれば、私もどこか納得できる【ことの善悪ではない】が、誰でもよかったはいかなることであろうか。

ところでこの様な事件が起る度に、学校も教育委員会も文部科学省も「いのちの大切さの教育を!」という声があがる。もっともなことのようであるが、なぜか虚しさを感じてしまう。果して「いのちの大切さ」を人は人に教えることができるのであろうか。「いのちは一回限りの、世界にひとつのものであるからお互いに大事にしましょう」と教えて【言って聞かせて】「はい、分りました」となるものであろうか。
教育とは自分が知っていることを知らない他人に教えることであるとするならば、教える側は「いのち」とは何か、「死」とは何か、そもそも「生きる」とはいかなることであるか、知っているのであろうか。ここまで書いて「では、あなたは知っているのか」と問われそうであるが、私は知っているということではない。ありていに言えば私は知らない。が、しかしかすかにではあるが、いのちの大切さは教えるものではなく、親や大人が生きることにおいて感じてもらうものではないのか、という気がする。

道徳教育のレベルでは届けられないであろう。以下私の勝手な推測で申し上げてみたい。最初のボタンの掛け違いは「人生」と「生活」の混同にある。自分が生れて死ぬことはいかなることなのかを考えること【人生】と、いかにして身体を養い暮し向きを立てて行くか【生活】を同一視してしまったことにある。人生と生活は密接な関係にあるが、優先順位から言えば人生が優先する。平たく言えば生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではない。しかし、止むを得ない事情もあった。太平洋戦争終結後の日本は極端に貧しかった。私の親の世代は生活に追われて人生などという余裕はなかったに違いない。物の豊かさが人生の豊かさであると思い込んだとしても不思議ではない。

60数年、おおかたの人が生活を豊かにすることが人生の豊かさであると思い込んでしまったのではなかろうか。親は子どもに生活が豊かになる方法【損得勘定】は教えたが、人生【生死】をおろそかにしてしまった。生きるとは単に身体だけではなく精神【魂】というものが関わっている。
「いのちの大切さ」が教育の営みでないとすれば、いかなる手立てがあるのであろうか。

中国の老子の言葉に「いかに為すかということはいかに在るかということである。」(意訳)というのがある。言い換えると「いのちの大切さを教えようとするなら、いのちを大切にすることである」となるであろうか。いのちを間違えてはいけない。いのちは人のいのちだけではない。一切衆生悉(いっさいしゅじょうしつ)有(う)仏性(ぶっしょう)である。東洋思想ではありとあらゆるものに仏性(いのち)があると説く。人は生きるために、人以外の生物(いきもの)(動物・植物)のいのちを頂かなければならない。殺生(殺し)は日々の暮しの中で行われているのである。私に譲られた他の生物たちのいのちへの感謝を忘れて、「人のいのち」の大切さを説いても届くまい。
いのちは誰のものか。自分のものではない。自分でつくったいのちではない。もちろん親のものでもない。いのちの歴史をさかのぼると天(大宇宙)からの頂きものとしか言いようがない。
であれば「生きている」は傲慢である。「生かされて在る」のである。「在る」は私の意志ではない。在る(存在)を味わって生きたい。

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