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季刊誌「せおと」-fileNo.030-ことばの力

fileNo.030ことばの力

『ことばの力』 「大変失礼な物言いではあるが」と前置きして、その講師は「最近の年寄りには深みがなくなった」と語り始められた。

 「虫干おいろぼし法要(真宗寺院で行われる重要な法要の一つ)」でのことである。私はこの「年寄り」という言葉が、年寄りに一般としてではなく自分のこととして届いてきた。つまり、あなたは深みのない人(年寄り)と聞えたのである。今巷ちまたでは「生涯現役」とかいって年寄りが社会の最前線でばりばり働く(稼ぐ?)のをよしとする風潮がある。そういう生き方もあると重々承知しているが、私は以前から隠居(いんきょ)(世事を捨てて閑居かんきょすること)生活への憧あこがれがあった。私が小さかった頃、生れ在所の農家には、隠居と呼ばれる住居が母屋おもやの隣りにあって、祖父母が住まっていた。隠居は社会の第一線から退くけれども居なくなるわけではない。

 「日本昔ばなし」の年寄りみたいにここという時に現役世代にない知恵を出してくれる存在、というイメージがあってそれに憧れた。若い世代に口は出さないが、問われれば湯水の如く知恵が湧く、でありたかった。残念ながら現実に問う人はいない。

多分いやきっと、今の若者は知りたいことがあればインターネットを引くであろう(私が引くのは辞書)。少なくとも知りたい(解りたい)ことが知識に関することであれば、年寄りに聞く必要はなさそうである。昔ばなしの頃にはコンピューターもなければ記録もなく、知識や知恵を蓄積した年寄りは重宝されたであろう。今や種々の記録もあればマニュアルもある。無いのは年寄りの出番だけ。

講師の話に戻ろう。「深み」がなくなったのは「流れ去る」言葉を追いかけ・振り回されて、深く垂直に突き刺さって「流れ去らない」言葉に出会わなかったからだ、と言う。流れ去る言葉とは、使い捨ての言葉つまり情報であろう。ロンドンでオリンピックが開催され、女子バレーボールチームは28年振りにメダル(銅)を獲得した。そのチームに鹿児島県出身の迫田選手と新鍋選手がいたなどという情報がある。もちろん私も彼女達の活躍を喜んだのは確かである。しかし、申し訳けないけれども本人及び一部の人達を除いて、いづれ新しい情報(珍しいもの)にとってかわられる。情報は鮮度が大事できのうの天気予報など誰も見向きもしない。情報としての言葉はどんどんと水平に流れ去り、踏みとどまることがない。

9月1日に夕刻地区の自治会長から電話があった。この地域では70歳以上の高齢者を敬老の日に公民館に招待して祝賀会を催すことになっている。今年あなたも70歳になられたので出席いただきたい、とのことである。もちろん「ご丁寧にありがとうございます」とお受けしたが、ほんとうのところ自分の70歳に驚いている。冒頭の講師の言葉のように、馬齢を重ねた深みのない年寄りとしては敬老祝賀会など居心地が悪そうである。

言葉の話の続きであるが、流れ去らないで人を支え、人を育む言葉とは何か。日本曹洞宗の開祖、道元どうげん禅師(ぜんし)(1200~1253)の著、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」に「愛語(あいご)」という言葉がある。少々難しいけれども道元は、愛語は仏ほとけの慈悲じひの心から出た言葉だと言い、人びとに対して菩薩ぼさつの思いをもって物を言う時、その言葉が愛語、慈悲の言葉だという(大峯顕・宗教への招待)。

「愛語を好むよりはようやく愛語を増長するなり。しかしあれば日ごろ知られず見えざる愛語も眼前するなり。」とあり、増長とは増大して成長し展開していくことだという。愛語は単に流れ去らないだけでなく、語られるたびに新しい愛語が生まれ、ついには語り手も知らなかった言葉まで登場するという。言葉が勝手に自己増殖ぞうしょくするのだ。現代人の多くが考えているように、言葉は意思疎通の道具ではない。我々はポケットから取り出すように言葉を操っているのではない。むしろ届けられた言葉によって我々が操られているのだ。悲しいという言葉が届けられて人は悲しめる。届けられる言葉は受け取る人の自由にはならない。そのへんの消息(しょうそく)を詩人の大岡信まことは次のように表明している。「(ある言葉が与えられてはじめて、ある感情が明瞭に自覚される)人は知っている言葉の世界の広さに応じて感情の世界をもつ」(詩(ことば)人間)。

堕落(だらく)という言葉がある。どちらも「堕おちる」「落おちる」と読む。落ちるは落葉のように物体がおちるときに使い堕ちるは心がおちる、心がこわれていく時に用いる。落ちるは大地で止まり、必ず音がする。堕ちるは心が自己自身の内側におちて、悲しいことに底が無いので音もない。今の世相は政界も経済界も教育界も、私を含む人々の心も音もなく堕ち続けているようで気が重くなる時がある。

ところで堕ちていく世間(人)が踏みとどまる手だてがあるのか。ある、と思いたい。それは流れ去らない言葉、本当の言葉に出遭うことだ。いかようにして?

先(せん)達(だつ)に問うしかあるまい。

 『名月や ひとり老いゆく 峰の松』  あきら

平成24年秋季号より

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