『平成25年 夏』
8月25日夜から降り出した雨は、26日の早朝には雷を伴って時に激しく降った。久しぶりの事でホッとと同時に心地良かった。
それにしても今夏の暑さと雨の少なさにはかなり閉口した。庭に植え込んである「りゅうのひげ」はすっかり赤茶けてしまい、カエデ3本は早々にかなりの葉を枯らした。
時折肩身の狭い思いをしつつ(節水の呼びかけがあったので)水を播いたりしたが、焼け石に水の感じがしないでもなかった。そんな折、南日本新聞の南日狂壇(8月24日付 塚田黒柱選)で次の句をみつけて笑ってしまった。『「夢じゃった 家屋(えや)敷(しく) 今じゃ持て余めっ」 津留 群志(唱)すったい堪さん掃除草取い』である。
十数回の転勤(転職)でその度に住いを替え、その大方を集合住宅で生活してきた私にすれば退職後は広い土地に住みたかった。自分の財力で手に入れられる広い土地は、天文館にも鹿児島市街地にも見つからず現住所(吹上町)に落着いた。確かに宅地としては広い(資産価値ほぼゼロだけど)。
住みついた10年前、夫婦共今より10歳若かった(当たり前だ!)。体力もかなりあった。2人して土を盛り石を置き、カエデ、椿、うばめがし、こへぎ、そして「りゅうのひげ」を植えた。「おお!いい庭になった」と自画自賛していると家を建ててくれた棟梁があらわれて「家と庭は対ついですから庭がいいと家が映える」と言い添えた。
再度言う。あの頃は若く、元気だった。せっせと植えて、せっせと水を撒き、汗をかいてはビールを飲んだ。今はどうだ。糖尿病対策とやらでカロリーは1800Kに制限され(ビールは高カロリーだから控えて焼酎にしろ、それも1日1合)、おまけにコレステロール数値が高いうえに高血圧とくれば薬はワンサとくださる。家内は「薬は飲んだ?」と連呼する。そう言えば、いつの頃からか同級生との飲み会は病気自慢の場になった。まちがっても健康自慢の場ではない。自分の病気の詳しい説明に始まって手術の要否から民間療法へと至り、相づちを打ったり打たれたりである。えげつないけれども他人の病気は励みになる(俺はまだ大丈夫と胸をなでおろす)。
話しを元に戻すと、乾燥したからと水を撒くとりゅうのひげよりまず雑草が活き活きとしてくる。足腰が弱っているのでその雑草取りがままならない。前掲の狂句に苦笑いするしかないのである。
また、この夏は自分がこの歳まで生きのびられたのは、誠に多くの幸運に恵まれてのことであった、と改めて思い知らされることに遭遇した。少し横道に逸れるけれども、南日本新聞に今年の元旦から毎日連載が始まった「かごしま俳句紀行」というのがある。選者、解説は上迫和海氏であるが、その5月3日号の俳句は「夏近し 隣の家も 窓を開け」(牛根鉄夫)であった。その解説の後半部分に感銘を受けた。「前段省略~何気ない日々。それは平凡なのではなく、見えない無限の幸いの上に成り立っている。掲句は、そういう〈日常〉の意味を、しみじみと味わせてくれる。」である。ほんとうに毎日毎日無限の幸いに恵まれて今、ここに在るのだと思う。
病気にもならず、事故にも遇わず、殺しも殺されもせず、生きのびてこられたのを自分の努力や手柄のごとく考え「退屈で平凡な日々」などと表現してきた若くて浅はかで傲慢な自分であった、と寂しいけれどこの歳になって思うことである。
くどいけれども寿(いのち)も命(いのち)も自分の所有物ではない。命は生まれて死ぬ個体個己(ここ)のいのちで、寿は遠い遠い昔から途切れることなく続いてきて、これからも続く超個己のいのちである。命は有限であるが、寿は無限である。命いのちは寿いのちから出て寿いのちに戻る。決して無くなる訳ではない。我々はそんな二重構造的いのちを生き、生かされている。
こんな物言いをすると、全て生まれた時に定められていたとする運命論に聞こえるかもしれないが、そうではない。20世紀のドイツの哲学者マルチン・ハイデッガーの言葉に「被投的企投(ひとうてききとう」がある。被投的とは日本的に言えば宿業(しゅくごう)(運命)で、人の意思の届かない自分の性(男・女)、生まれた時代(昭和・平成)、場所(国・故郷)、親、能力や性格などの部分であり、企投は日々の暮しの選択(食べる・着る・住まう)や仕事の選択等を指す。
つまり、被投は宿業で企投は自由である。宿業に縛られながらも自由であるという、ここでも二重構造的に生き、生かされて在ある。
理屈を言えば、人生の途中にはいくつもの分岐点があって、その都度その時の自分が、その時の全能力で選択して決めてきたように思う(とは言ってもほとんどは自分の思いどおりではなかった)。けれども今、振り返ればただの一本道、この道を歩いて(歩かせて頂いて)ここに在る。
もちろんこの道に感謝はあっても悔いはない。有り難い一本である。
『星空と なりて止みたる 落葉かな』 あきら
平成25年秋季号より