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季刊誌「せおと」-fileNo.55-もう一つの物差し

fileNo.55もう一つの物差し

『がしかし、誰よりも速く走り遠くへ跳ぶ賢い等々は人間の持つある一部分であって全体ではない。人には比べても比べても比べられない部分が残る。その比べられない存在を「尊厳」とか「天上天下唯我独尊」とかいうのではないだろうか。』

 

日曜日の朝のテレビは、ニュース、さわやか自然百景に続いて小さな旅を観るのが最近の楽しみである。三月三日もその流れで民放へ変えるといつもの番組でなく「鹿児島マラソン」をやっていた。しばらくスター卜の様子を見ていると力ミさんに「これ、ずっとみるの?」と訊かれて他の局へ変えると「東京マラソン」であった。

鹿児島が一万二五〇〇人、東京は三万八〇〇〇人、が走るらしい。そういえば一月の指宿菜の花マラソンは三万人近くの人が走ったと聞くと日本人は皆走っている気分になる。来年の東京オリンピックの影響か健康志向のせいなのか、よくもまあ走るなあとあきれながら感心する。生まれつき足も遅く根性もない私は「何が悲しくてそんなに辛いことするの?」とテレビに向って悪態を吐く。「俺って性格悪いなあ!」になったところで先日近くのクリニックで久しぶりに会った昔の同僚のセリフを思い出す。「どこが悪りとな?」と訊くとすかさず「性格!」と返えされて大笑いした。

人は多分【いやきっと】性格あるいは根性が悪いというとすぐあの人この人を思い浮かべる。自分のことにはなかなか思いが至らない。それでも時々、ほんの少し自分の根性の悪さにも目が向くが、すぐにいやいや「あの人に比べればオレの方がまし」と打ち消されるのがオチであろう。

人間にとってこの比べグセ(?)もやっかいである。まず身長、体重、容貌の外見にはじまり成績、能力、社会的地位、資産の多寡から家柄ときて目に見えない性格、根性、幸不幸に至る。ありとあらゆるものに優劣をつけ、優れていると天狗になり、劣っていると思ってはへこむ。「そうやって人類は進歩してきたのです。」と達観するのも悪くはないけれども世の争い事の多くがこの比べるから派生する「嫉(そね)む・妬(ねた)む」心にあるような気がしてならない。

現代人は科学的にものを見たり考えたりするように教育されているので何か語れば「証明できるか」「見せてみろ」となって目に見えるものだけが存在するものであるかの如く錯覚する。しかし、目に見えなくてもあるものはある。風だって春だって優しさや思いやりもある。植物は土地から水分や養分を吸い上げて生きていて個々に生きているようでも大地という命のつながりが目に見える。動物は個々に生きて移動もできるからどことも繋がっていないように見える。人もその一員であるが果たしてどうなのか。

仏典では個々に動く動物も大きな寿(いのち)で結ばれていると説いている。そのいのちを「無量寿(むりょうじゅ)」とか「阿弥陀の本願力」とよんだりするがいづれも「大宇宙の法則」であり目には見えない。

閑話休題。誰よりも速く走り誰よりも速く泳ぎ誰よりも高く遠くへ跳ベて金メダルを獲り誰よりも賢くてノーベル賞を受けるのは称賛に値するすばらしいことである。がしかし、誰よりも速く走り遠くへ跳ぶ賢い等々は人間の持つある一部分であって全体ではない。人には比べても比べても比べられない部分が残る。人一人の全体は誰とも代われず誰も代ってあげられない。その比べられない存在を「尊厳」とか「天上天下唯我独尊」とかいうのではないだろうか。

仏教では人間が生活するこの世を裟婆(しゃば)とよぶ。裟婆は差別の世界、比べられて優劣をつけられる世界である。おもしろいことに仏教はもう一つの世界を提示する。それが浄土、正確には極楽浄土である。浄土は全く苦しみや悩みが無く差別もない絶対平等の世界と説かれている。裟婆は凡夫とよばれる人間が、浄土は仏の住むところとある。

仏とは何か凡夫とは何者か。先達の説に「凡夫とは人間であるという自分の現実について妄想を持っているだけで、明らかにその姿の本質を見ることができない存在をいい、人間が自分の本当の姿に根本的に目が覚めたら仏とよぶ。」【大峯顕・大慈悲心】とある。人は仏に成る存在で死んで無に成るわけにはいかないのだ。

人がいつの頃から集団生活を始めたかは知らないが裟婆には裟婆のルールがあって少々窮屈な世界でもある。裟婆のルールに疲れたら浄土のルールで観てみるのも悪くないかもしれない。

見かぎりし 故卿の山の 桜かな   一茶

平成31年春季号より

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