『いのちいのち』 この8月2日、大阪市の知り合いから一通の封書が届いた。
タイトルに『大峯 顯先生を囲んでの食事会のご案内』とあり、日時8月27日17時30分、場所大阪市阿倍野区・天王寺ホテルとあった。先生が先頃出版された句集『短夜(みじかよ)』で第49回 蛇笏(だこつ)賞と第7回小野市【兵庫県】詩歌文学賞の受賞を祝う食事会だという。
文末の添書に『二十名程度のささやかなお祝い会です。お気軽にお越しください。』とあったが『大阪くんだりまでお気軽はないよなぁ!』と一瞬思ったりもした。
同じ案内を受取った住職と語り合い、新幹線での出席を画策したがホテルパック・費用の都合で航空機での旅となる。
蛇足の感もあるが大峯先生・蛇笏賞について書いておきたい。先生は著作(多数あり)のあちこちに書いたり語ったりしておられるが、京都大学出身の宗教哲学者、奈良県大淀町にある専立寺の前住職、毎日俳壇の選者をつとめられる俳人(俳号・あきら)で三足のワラジを履いているという。ドイツ留学の経験もある日本でも指折りの哲学者らしい・・・(下から上は測れない)が、おん年84歳の好好爺である。
俳句も門外漢の私には『蛇笏賞』なるものがいかほどの値打ちがあるものか分らないが、言う人に言わせると俳句界のノーベル賞ものらしい。もっとも俳句そのものが夏炉冬扇(かろとうせん)「夏の火鉢、冬の扇で無用の事物」と言われているからノーベル賞も眉唾物(まゆつば)ものかもしれない(おっと私ごときがこんなことを言ってはいけない)。
夏炉冬扇と表現したのは俳聖といわれる松尾芭蕉らしいが、続けて『俳諧の益(えき)は俗語を正す也。』とある。俗語とは単に下品な言葉というだけでなく、真実のこもっていない、空っぽの言葉という意味で、これを正すのが俳句のただ一つの目的だという。言葉を正すことが世の中(人生)を正すことだとも言われるから心したい。
会の終りに先生のあいさつがあった。ヘルダーリン(19世紀のドイツの詩人)の詩『いさおし(功績)は多い。だが、人はこの地上に詩人として住んでいる』を引合いに受賞の感想を語られた。
『いさおしは多い。』人間の日々の仕事は各人の能力や努力にもとづくいさおしの仕事だという。政治家も学者も行政マンも会社員も皆業績を上げるために忙しく働いている。つまり手柄をたてるために走り廻っている。『だが』と続けてそのあり方が人間本来の姿なのかと問いかけ、違うだろうと言い切って『人はこの地上に詩人として住んでいる』と詩(うた)う。ここでの詩人は、詩をつくる人の意味ではなく、仕事だけではない次元で人は生れ・生きているのだと言いたいのである。もっと言えば、人に生まれたことを喜べる世界(次元)が人間本来の姿のようだと。推測もはいるけれども、先生は賞が欲しくてこの道(俳句)を歩いてきたのではないと言いたかったのだ。賞をめざせば『いさおし』になる。
想えば私は(私達と言ってもいいが)自分がこの自分に生まれたいと希望し選択して生れてきたのではない。両親も兄弟も故郷も時代も何ひとつ選べずに誕生した。ある意味一方的に押しつけられて生きることを強要されたと言ってもいい。けれども嘆き恨みながら生きているわけではない。
大阪の天王寺のホテルの一室の宴の席で、この老哲学者の話を聞きながら自分が今・ここにいる(いられる)幸せを思った。ここに辿り着くまでの人との出会いに思いを巡らせていた。大峯先生に会える直接のきっかけはAさんである。Aさんに会うにはBさんの存在は欠かせない。Bさんと会うにはCさんだがCさんと同時にD・F・Gさんにも会ったりする。出会いの場所は職場であったり学校であったり家庭(結婚)だったりするが、もっと遡ると故郷の両親兄弟に行き当たり、自分自身の誕生に辿り着く。自分の誕生に自分の意志は働いていないけれども、人生の途中で『この人に出会えてよかった!』と言える人を一人思い浮かべることができれば、出会った全ての人がかけがえのない人になり、自分の誕生もこれまでの歩みも肯定できるのではないだろうか。ここまでは自分の意識の及ぶところであるが、やはり不思議が残る。私を両親のもとへ預けたのは誰(何)なのか。
私達が意識できるいのちよりもっと奥にあるいのちを『いのちいのち』と呼んだ人がいる(三木 清)。
このいのちの声にも耳を傾けて生きたい。
心待ち 夕べが早し 花はな茗荷みょうが あきら
平成27年秋季号より