特別養護老人ホーム美樹園 | 社会福祉法人南陽会鹿児島 谷山 老人ホーム 特別養護老人ホーム

季刊誌「せおと」-fileNo.008-私たちにできる、ただ一つのこと

fileNo.008私たちにできる、ただ一つのこと

『努力は報われる?の心』

昨秋、9月末頃庭の一角の畑に、白菜と大根の種を播いた。この文を書いている今、収穫期を迎えている。くわで耕やし、多目の堆肥を入れ、畦を立て、30㎝間隔で種を播き土をかぶせた。
種子袋の注意書きをを読むと白菜は45㎝くらい間隔がいい、成長期に一杯ひろがらないと葉っぱが巻かないとある。30㎝もあれば充分、俺んちの畑ではそれほど大きくもなるまい、不都合があれば間引の時に考えると高をくくっていた。

3日目あたりに土が盛りあがり、4,5日で小さい二葉緑の森が現われる。この時期なぜだかよく分らないが、ほんとうにワクワクする。夜、寝る時も小さな芽が現前する。朝は一番に見に行き、声をかける「ご苦労さん」と。声かけは肥えかけであるとずっと昔何かの本で読んだ。
本葉が2~3枚の頃間引くとマニュアル通りに作業にかかる。何しろ狭い場所に一袋全部播いてしまったから間引く数が半端じゃない。

ゆくゆくは一本にしなければならない場所に20本位は芽を出している。まず4,5本位に絞るつもりだが迷った。どれ(誰)を残してどれ(誰)を間引くか。その時誰の句だったか「散るさくら残るさくらも散るさくら」が浮かんだ。え~い、とただ間隔だけを考えて引き抜いてまわった。どれが残るにしても最後は私に喰われてしまう。こんな作業を3回程くり返し、選びぬかれたエリート達が30㎝間隔で大根50本位、白菜60本位が残ったのは10月中頃であった。

日照りが続けば水まきを怠らず、除草に努めたところ実にスクスクと育っていた。
11月下旬、大根はかなりの大きさになった。白菜は巻き始めているが、小さくてどうも巻がゆるい感じがする。まだ、早いこれからだと思うが他所の畑ではしっかり巻いて大きくなっている。

12月に入り、大根を試しに抜いてみる。
地上10㎝首も青くなっていたが抜いてびっくり地中も10㎝位しかない。
こんな種類じゃなかったと種子袋の説明を読みかえすと40~50㎝に成長するとある。白菜は白菜で中から腐るものもあり、堅く巻く気配はない。

今巷では、ワーキングプアとか働く貧困層とか問題となっている。つまり、努力しても報われない社会なのではないかと問題提起しているのだろう。
私は思う。努力は報われる社会がいい。少なくとも「努力しているなあ。」と私に観える人が報われないのは悲しい。
けど、と私はまたと思う。「これほど努力しているのに報われない」と嘆く人に出会うと白ける。そして言いたくなる。「努力は報われるとは限らない」と。もちろん、努力しないと報われようがないし、宝くじは買わないと当らない。
 人生の目的って何だろう。出世だとか立派な家をつくるとか、他人より豊かな生活をするとかを掲げる人もあるが、私にはそれは生活の目標だと思う。

【人生の目的って死ぬこと?生まれてこの方毎日毎日に死に向って生きている。】
人生の目的は前(先)にあるのではなく、下(足元)つまり日々の歩みにあるのではないか。
結果ではなく生きてきた過程(プロセス)なのではないか。
「遠足はその日だけが楽しいわけではない」
その日を待ちわびる楽しさも後日振り返って語る楽しさもある。
人生もたどりついたところではなく、たどる道の楽しさ、思い出として語る楽しさがある。
努力が報われるか報われないか(宝くじが当るか当らないか)だけに的を絞るといつも愚痴っている貧しさを思う。

努力する(宝くじを買う)ことに目を向ければ夢がみられるかもしれない。
そもそも人は生れる時、自分の両親も、自分の国も、この身体も何ひとつ選べなかったではないか。私にできることは唯ひとつかもしれない。それは頂いたいのちを賞(めで)ることだけ。
大根も白菜も思い通りには育たなかった。けれども育てるという過程(プロセス)を充分に楽しませて頂いた。それでも来年こそは!と凡人は決意する。

昨秋、9月末頃庭の一角の畑に、白菜と大根の種を播いた。この文を書いている今、収穫期を迎えている。くわで耕やし、多目の堆肥を入れ、畦を立て、30㎝間隔で種を播き土をかぶせた。
種子袋の注意書きをを読むと白菜は45㎝くらい間隔がいい、成長期に一杯ひろがらないと葉っぱが巻かないとある。30㎝もあれば充分、俺んちの畑ではそれほど大きくもなるまい、不都合があれば間引の時に考えると高をくくっていた。

3日目あたりに土が盛りあがり、4,5日で小さい二葉緑の森が現われる。この時期なぜだかよく分らないが、ほんとうにワクワクする。夜、寝る時も小さな芽が現前する。朝は一番に見に行き、声をかける「ご苦労さん」と。声かけは肥えかけであるとずっと昔何かの本で読んだ。
本葉が2~3枚の頃間引くとマニュアル通りに作業にかかる。何しろ狭い場所に一袋全部播いてしまったから間引く数が半端じゃない。

ゆくゆくは一本にしなければならない場所に20本位は芽を出している。まず4,5本位に絞るつもりだが迷った。どれ(誰)を残してどれ(誰)を間引くか。その時誰の句だったか「散るさくら残るさくらも散るさくら」が浮かんだ。え~い、とただ間隔だけを考えて引き抜いてまわった。どれが残るにしても最後は私に喰われてしまう。こんな作業を3回程くり返し、選びぬかれたエリート達が30㎝間隔で大根50本位、白菜60本位が残ったのは10月中頃であった。

日照りが続けば水まきを怠らず、除草に努めたところ実にスクスクと育っていた。
11月下旬、大根はかなりの大きさになった。白菜は巻き始めているが、小さくてどうも巻がゆるい感じがする。まだ、早いこれからだと思うが他所の畑ではしっかり巻いて大きくなっている。

12月に入り、大根を試しに抜いてみる。
地上10㎝首も青くなっていたが抜いてびっくり地中も10㎝位しかない。
こんな種類じゃなかったと種子袋の説明を読みかえすと40~50㎝に成長するとある。白菜は白菜で中から腐るものもあり、堅く巻く気配はない。

今巷では、ワーキングプアとか働く貧困層とか問題となっている。つまり、努力しても報われない社会なのではないかと問題提起しているのだろう。
私は思う。努力は報われる社会がいい。少なくとも「努力しているなあ。」と私に観える人が報われないのは悲しい。
けど、と私はまたと思う。「これほど努力しているのに報われない」と嘆く人に出会うと白ける。そして言いたくなる。「努力は報われるとは限らない」と。もちろん、努力しないと報われようがないし、宝くじは買わないと当らない。
 人生の目的って何だろう。出世だとか立派な家をつくるとか、他人より豊かな生活をするとかを掲げる人もあるが、私にはそれは生活の目標だと思う。

【人生の目的って死ぬこと?生まれてこの方毎日毎日に死に向って生きている。】
人生の目的は前(先)にあるのではなく、下(足元)つまり日々の歩みにあるのではないか。
結果ではなく生きてきた過程(プロセス)なのではないか。
「遠足はその日だけが楽しいわけではない」
その日を待ちわびる楽しさも後日振り返って語る楽しさもある。
人生もたどりついたところではなく、たどる道の楽しさ、思い出として語る楽しさがある。
努力が報われるか報われないか(宝くじが当るか当らないか)だけに的を絞るといつも愚痴っている貧しさを思う。

努力する(宝くじを買う)ことに目を向ければ夢がみられるかもしれない。
そもそも人は生れる時、自分の両親も、自分の国も、この身体も何ひとつ選べなかったではないか。私にできることは唯ひとつかもしれない。それは頂いたいのちを賞(めで)ることだけ。
大根も白菜も思い通りには育たなかった。けれども育てるという過程(プロセス)を充分に楽しませて頂いた。それでも来年こそは!と凡人は決意する。

平成19年冬季号より

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