『言葉の意味など大きくなって知る。人は言葉で育つとはこういうことをいうのてあろう。優しい言葉が優しい心情を育み、悲しいという言葉が悲しいを醸し出す。言葉が先なのだ。そして人生が深く豊かになる。』
人間(ひと)と生れて
七月某日
夏休みに入って間もなく娘が養護学校二年の長女直と幼稚園年長の二男啓を連れてやって来た。
それぞれに虫捕り網と虫かごを手にしている。小五の長男信の姿がないので訊ねると友達との約束があって残ったという。小学校も高学年になると家族より友達が優先するものらしい。我が家の庭先も海へ続く道路にも赤とんぼが山ほど飛んでいて二人が網を振りまわすけれども捕獲は難しい。特に脳の手術を繰り返した直は弱視もあるとかでどのように見えてるのかさえ心もとない。こうなると大人二人が子ども以上に張り切る。一匹目は直の虫かごへ二匹目は啓のかごへとケンカのないように配分する。トンボやシジミ蝶の類は比較的捕えやすいが大型の蝶は数も少なくうまくいかない。
走りまくって少々疲れ戻った庭先で姿のきれいな「もんきあげは」を捕まえた。二人の虫かごはほぼ満杯なので家にあった第三のかごに入れる、とそれを姉の直が離さない。
啓「直ちゃん、分ってる? このちょうちょは皆んなのものなんだからね。」
直「・ ・ ・」(そっぽを向く)
しばらくして
啓「直ちゃん、分ってる?このちょうちょは直ちゃんのものじゃないんだよ。皆んなのものなんだからね。」直「・・・」(あさってを向く)
またしばらくして
啓「ねえ~、直ちゃん、分ってる?」
すかさず
直「何回も言わないで!分ってるんだから」 (怒ってる様子)
思わず笑ってしまう。
ことのついでに言えば娘が「ママはいつも怒ってばかり!」と直に叱られるというので「じいちゃんはうるさいばっかりかい」と聞くと「じいちやんは優しいばっかり」とややあやしい日本語で忖度(そんたく)も忘れない。
八月某日
宝島の次男一家も戻り全員揃って私の喜寿と金婚式を祝う宴を催してくれた。その最中次男の長女で五歳のみのりが「私は生れる前にどこにいたの?」と訊いた。実に哲学的な問いに誰も答えられない。やむなく「もう少し大きくなったらじいちゃんが教えてあげる。」と言って逃げた。
子たちの言葉を覚えはじめの頃はおもしろい。覚えた言葉をまず使う。意味なんか解らずに使うから状況に合わないこともあれば「お~」と感嘆することもある。大人の反応がよければ言葉に磨きがかかる。言葉の意味など大きくなって知る。人は言葉で育つとはこういうことをいうのてあろう。優しい言葉が優しい心情を育み、悲しいという言葉が悲しいを醸し出す。言葉が先なのだ。そして人生が深く豊かになる。
「すべて言葉はしみじみといふべし。」とは良寛さんのセリフであるが「すべて言葉はしみじみと聴くべし。」をつけ加えたい。
九月某日
成る
むかし、少し昔
父と母のもとに 子と成った
兄と姉がいて 弟にも成った
その頃戦争があって 父が戦地から 生きて還ったので
妹と弟が生れ 兄に成った
二十歳になると それだけの理由で 大人に成った
結婚したら 夫に成った
子どもが生れて 父親に成った
孫が生れ じいちゃんとよばれて 祖父に成った
遠からず この世と別れて 仏に成る
自然の道理 何の不思議がある.
令和元年秋季号より