『かずら橋は大歩危駅から二つ三つ山を越えた山奥で平家の落人伝説がもっともと思われた。「祖谷のかずら橋」は入場料550円でびっくりしたが人数制限が無いのにもっと驚く。恐る恐る渡りながらよく観ると太いワイヤーロープにかずらが卷いてあった。納得!』
令和元年五月の連休明けに思うところがあって書棚の入替えと書籍類を少し整理した。そこですっかり忘れていた一冊の本を発見して不思議な思いともうちょっと早くに気づいておればなあという後悔の念みたいなものにとらわれた。その本は20年前に発行された「四万十川がたり[山と渓谷社刊]」で経緯(いきさつ)はこうである。
家内の同級生にIさんという男の人がいる。県外の会社の会長さんなんだが日置市にも借家があり会社と往ったり来たりしているらしい。借家では三代目だという柴犬のケイちゃんと暮している、いや、いるらしい。以前は持船があって同級生や知人を誘って釣三昧の生活らしかったがそれを売り払って今は乗り合いの釣船で楽しんでいるらしい。今年の春はやたらと鯛が釣れたらしく二番目の孫の高校の合格発表の日にも1kg超の桜鯛が届きのしをつけて転送してよろこばれた。最大4kgの物もあって捌(さば)くのに苦労したが家計的にも助かっている。
前置きが長くなったが以前から金婚式の祝いに旅に連れて行く、と言われていてこの4月の四国行きとなったのである。二泊三日の旅では少々広すぎるので西半分に絞って計画を樹てた。ポイントは愛媛県の坊ちやん団子、坊ちゃん電車、道後温泉。高知県は足摺岬、四万十川、桂浜。少し欲張って徳島県の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)、祖谷(いや)のかずら橋。それにどこからか四国の最高峰石鎚(いしづち)山を眺めるである。書き並べると相当なボリュームで欲張りすぎだった。
天気予報の雨を考えて出発は4月10日自宅5時30分Iさん宅を6時出発とした。運転席がIさん助手席に私、後部座席にケイちゃんと家内だったがケイちゃんは旅行中運転席と助手席の間に陣取りご主人様に甘えていた。東九州自動車道を北上して大分県は佐賀関港へ着くと11時発の国道九四フェリーに乗船でき12時すぎには西の端佐田岬半島の三崎港に上陸し昼食をすませて松山市のビジネスホテルを予約する。地図でみるほど松山は近くなく宿舎に入ったのは4時をまわっていた。
フロントで電車通りの向うが愛媛県庁その後が松山城と聞き夕食前にロープウェイで城に登る。どんよりとした曇り空である。かなり大きく広い見応えのある名城で晴れていれば石鎚山も望めると案内板にあった。茶屋で坊ちゃん団子を食し、リフトで下城する。坊ちゃん電車と道後温泉は省略して居酒屋での夕食で一日目終了となる。
二日目足摺岬を目指して南下を続け愛媛県から高知県へ入ったあたり宿毛(すくも)で昼食とする。食前に今夜の宿探しにかかり一発目で国民宿舎桂浜荘を確保して少しホッとする。旅にビジネスは似合わない。足摺岬の足元にも八十八ヶ所巡りの寺があったが昨日今日とお遍路さんの姿を見受けた。徒歩、自転車、自動車とさまざまなようである。
四万十川には多くの沈下(ちんか)橋があるらしいがその一つでいいから渡りたい、が今回の旅の目的の一つだったのでIさんがナビに打込み足摺から最下流の佐田沈下橋へと向ぅ。かなりの道程でたどり着いた頃は陽もかなり傾いている。欄間の無い橋を車で渡るのはやっぱり恐い。川原に降り立って水の冷さを確認する。最後の清流と呼ばれただけあって水はきれいで量も豊かであった。大きな声では言えないがその川原の石が1個我が家の居間にある。桂浜荘では初鰹のタタキも頂き、三日目の朝には龍馬像にもご挨拶して高知自動車道を北上する。
大豊インターで国道32号線に入りJR土讃(どさん)線大歩危駅へ向うがかなり谷が深く山々の山桜が見事である。何回も四国には足を運んだというIさんも「こんな四国に出会うのは初めてだ。」とのたまう。かずら橋は大歩危駅から二つ三つ山を越えた山奥で平家の落人伝説がもっともと思われた。「祖谷のかずら橋」は入場料550円でびっくりしたが人数制限が無いのにもっと驚く。恐る恐る渡りながらよく観ると太いワイヤーロープにかずらが卷いてあった。納得!
帰る時間が心配で石鎚山は省略してと伝えたがせっかくだからと登山口まで連れて行ってもらった。山頂は望めなかった。旅の仕上げはしまなみ海道で6つの島を超えて尾道市にたどり着くと後はひたすら高速道路走行である。山陽道、九州|道、八代から西回り自動車道で暗闇を走り続け帰宅は日付が変ってからであった。
それにしてもIさんは強靭である。3日間一人で運転し、翌日いやその日の午後写真を持って我が家ににこやかに表れたのである。脱帽! この旅の途中で喜寿の誕生日を迎えたが印象深く有難いことであった。
令和元年夏季号より