『生死一如(しょうじいちにょ)』 娘が間もなく3歳になろうとする息子を連れて里帰りしたのは、春の彼岸入りの18日で、東日本大震災の発生から1週間目のことであった。第2子の出産予定日が4月6日とのことで、それに備えての帰宅であった。大震災発生直後のことで、日本の将来にも暗雲が垂れ籠めたような感じの頃であった。
第1子は間もなく3歳(4月3日生)ということもあって、語彙(ごい)数が日一日と増えつつあり、会話は楽しくなったものの、かなり母親べったりで第2子誕生後私達祖父母と生活できるのか、考えるだけで憂鬱(ゆううつ)であった。
第1子を隣町のある産婦人科で出産した娘は、あの姿勢での出産はもう嫌、と第2子を身籠る前から語っていて、今回は好きな姿勢で生めるという助産院を探しあてていた。それは鹿児島市交通局の裏手にあって「鹿児島中央助産院」と称した。そこで出産すべく準備が整えられていた。
思えば彼女(娘)も助産院生れである。転勤先の大島郡は古仁屋の備助産院であった、懐かしい。昭和40年代の頃までは、あちこちの民家の軒先に「〇〇助産所」という看板が立ててあった。助産所を「すけさんどころ」と読んだという笑い話を憶(おぼ)えている。ちなみに小児科は「こじか」と読んだ。多分昭和30年代までは自宅出産が主流で、お産は日常生活の一部だったのであろう。産気づくと夫は「産婆さん」を呼びに走り、家では産湯(うぶゆ)のための湯を沸かすというテレビドラマを見ることもある。あの頃の産室は男子禁制で女性の独壇場であった。
その中央助産院に知り合いの助産師がいて(なぜか私の仲間内には数人の助産師がいる)彼女によれば、今も自宅出産はあって出張していくのだという。その中央助産院は、今はやりのレディースクリニックとかエンゼルクリニックとかに比べれば、やっぱり見劣りはする。訪ねると受付・診察室などのほか、6帖(じょう)、8帖程度の居室がいくつかあり、そこが居室兼しばらくの生活の場である。そこで上の兄弟たちも(場合によっては夫も)生活できて食事も提供されると言い(もちろん別途料金)、クリニックと違うところもかもしれない。常勤の助産師5名、事務員・調理師さん、嘱託医の産婦人科医師で運営されているらしい。ここで年間何人生れるのか知り合いに問うたら「おおよそ80人」と言う、「採算は?」と重ねて尋ねると「ボチボチでんなぁ!」と笑っていた。
4月1日夜陣痛らしきものがあり、翌早朝の出立を予想して、おにぎり等の持参品が準備される。予想が当り2日の朝3時、助産院へ向け出発する。運び屋は私となっていたので、数日前からダレヤメも控え(なんと立派なおじいさん)て備えていた。知り合いの助産師が丁度勤務で待ち受けており、診察の後「赤ちゃんの生れたい時を気長に待ちましょう」となって居室に入り婿も駆けつける。居室(産室)の隣がプレイルームで遊ばせるには好都合だったが、第1子は母親の姿確認を欠かさなかった。午後のプレイルームは長男一家も加わり、他に入院している人もなく全館貸切状態で娘の陣痛の叫びも聞えなくなる位子供達3人は騒々しかった。少し長期戦になるなぁ、と思われた頃長男一家が第一子を連れて夕食を摂ってくると外出し、婿を含めて4人となる。午後6時頃から陣痛が激しく婿と家内が付き添って産室に入る。私ひとりがプレイルームに残った。壁一枚の隣室からの絶叫に身が縮む思いで、部屋の中を歩き回った。後日、娘いわく「痛~い!」とか「もう嫌!」とか叫ぶと痛みが飛んでいくのだと。納得である。言葉の力だ。かくして、その日の午後7時すぎ、満潮の時刻に第2子は誕生した。女の子であった。
東日本大震災の後、想定外という言葉が飛び交い、聞くのも嫌と拒否反応を示す人もいた。それは多分に責任逃れの言葉として聞えたからであろう。しかし、生れて死んで往く人生に、想定内などと言える出来事があるであろうか。自分の意志で生れ、自分の努力で健康を保ち、自分の思うように老いて、そろそろよかろう、と往生できるなんて有り得ない。生老病死全ては想定外である。ただただ一瞬一瞬の、今に在(あ)るだけであり、自分の意志以前の意志(他力あるいは宇宙の力)に生かされているにすぎない。想定外は有り難い。
『まだ若き この惑星に 南瓜咲く』 あきら
平成23年夏季号より