『二つの世界』 九州南部が梅雨入りしたものと思われると気象台が発表した翌日、居住地の吹上町花熟里地区自治会は恒例の道路清掃と集落の北側を東から西へ流れる小野川堤防左岸の草払い奉仕作業であった。
午前八時自治公民館へ集合して出席確認の後各班(八班あり)は作業割り振りを受けて現場へ散り、十時には作業を終えて戻り、みどりの券(地区内で通用する商品券もどき・五百円相当)をもらって解散となる日程である。奉仕作業でボランティア活動のように思えるが地域の掟(?)は厳しい。参加は各戸一人、世帯構成員(児童は除く)が全員七十五歳以上と当日の冠婚葬祭は免除されるが、それ以外の欠席者はそれ相応の金銭負担が課せられる。もっとも労働力の質は間われないので私のような老いばれでも許される。
さて、当日我が六班への割当は小野川左岸の最下流部の堤防草払いと国道270号花熟里交差点から我が家を経由して海岸に達する市道部分およそ700米の清掃(道路脇の草払い)である。我が家から公民館までの距離約700米、公民館から堤防までほぼ500米、我が家と堤防が300米位ある。作業に取りかかる前にこの距離を長靴を履いて重さ約5kgの草払い機を担いで移動する。それだけでヘロヘロになる。移動や作業にとっかかるのは最後尾、息が上がるのは最初、作業量は3分の1程度という体たらくである。
この地に居を構えて間もなく13年、この班だけで8人が亡くなり4世帯が消滅した。見わたせば男性の中の最年長で平均寿命まで6年を切った。ナンダカンダと言いながら娑婆(しゃば/社会)の暮しも悪くはなかった(なぜか過去形になる)なあとつぶやいたりしている。娑婆は仏教の教えでは忍土(にんど)あるいは忍界(にんかい)と訳し苦しみが多く忍耐すべき世界の意味だという。娑婆は関係の世界でもある。人はこの世(娑婆)に生を受ける時、誰かが父であり母であり、場合によっては伯(叔)父・伯(叔)母であり兄弟(姉妹)であったりする。長じては先生・生徒、上級・下級生(先輩・後輩)、上司・部下等々の関係が生ずる。また、世帯を持って子を成せば夫(妻)、子や甥(姪)、従兄(妹)、孫も発生する。窮屈と言えば実に窮屈な娑婆世界である。世のもめごとはこの複雑な関係の中で起ると考えればさもありなんである。
しかし、人はもうひとつの世界を持つ。まったく他の誰とも関係しない独自の精神(心)の世界である。人にはその人の歴史と育んだ世界、その人の宇宙がある。外なる宇宙に対して内なる宇宙とも呼ばれる。少し横道だけれども、今宇宙に行くとか宇宙に一番近い街とか表現されるが地球だって宇宙の中にある。そういう意味では我々は地球人(社会人)であると同時に宇宙人でもあるのである。地球人(社会人)は亡くなると戸籍が抹消されてこの世(社会)から消されるけれども宇宙人である私はどうなるのであろうか。
閑話休題。内なる宇宙は比べられて優劣をつけられることのない世界である。この宇宙は計り知れない深さと拡がりがあり他の誰とも代わない。お釈迦さまが誕生の時叫ばれたという天上天下唯我独尊はこの宇宙への目ざめの象徴でもある。それはまた絶対孤独で寂しく厳しい世界でもあるが、ここを外して人の尊厳は成り立たない。
この春NHKテレビで「精霊の守り人」というフアンタジー物語(上橋菜穂子原作:綾頼はるか主演)が4回にわたって放映されたが、ここでも二つの世界(見える世界と見えない世界)が描かれていて興味深かった(そもそも見えない世界を映像にできるのか)。私達は目に見えるもの聞えるもの触れ得るもの(証明できるもの)が全てで、それが科学的思考だと教育されてきたように思う。ほんとうにそうなのだろうか。
ドイツの詩人ノヴァーリスに次の言葉があるという。「見えるものは見えないものにさわっている。聞こえるものは聞こえないものにさわっている。それならば、考えられるものは考えられないものにさわっているはずだ。」
私達が考えることのできるものの世界は、限られていてささやかなのだと思う。この私に見えない、聞こえない、知らない世界の方が、見えている、聞こえている、知っている世界よりはるかに大きいのだ。見えない世界【感じることはできる】も丁寧に歩みたい。
いくたびも 雨いくたびも 時鳥(ほととぎす) あきら
平成28年夏季号より