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季刊誌「せおと」-fileNo.013-2046人のリレー

fileNo.0132046人のリレー

『人身(にんじん)受け難(がた)しの心』

いま、我が家は嫁いだ娘がお産のため帰省中でにぎやかである。3月末が予定日なのでこの「せおと」が発行される頃には生まれていて、もっとにぎやかなことであろう。男の子だという。この娘が生れたのは奄美大島の古仁屋(こにや)で助産院であった。その頃は生れるまで性別も分らず、家内が夢にみた「女の子」だけがたよりであった。当時我が家には2人の男の子が存在しており、これにもう1人男の子が加わることになれば何とも色気の乏しい家庭になる、と気をもんだ記憶がある。その娘がお産をする。何とも不思議な思いである。

ところで「人身受け難し」であるが、この文言は浄土真宗の聖典の三(さん)帰依(きえ)文(もん)の一節であり「今すでに受く」と続く。ごくごく簡単に訳せば「人に生れるのは難しいが、すでに命を頂いている」であろうか。だが命を頂いた者【私】からすれば、難しいと言われてもピンとこないが、少し自分の命をさかのぼってみたい。

私の命の誕生には父と母が関わる。出会って世帯を持ち子をもうける。だが命は父母が始まりではない。父と母はその命をそれぞれ父母【私からは祖父母】から受ける。祖父母達はまたそれぞれの父母【私からは曾祖父母(そうそふぼ)】から命をもらい受ける。このようにしてどこまでもさかのぼることになる。命の源は?と問われるならば「大宇宙」と答えるしかあるまい。それはそれとして、私はここに存在させるために幾人の祖先が必要であったか計算できる。父母は2人、祖父母4人、曾祖父母8人、その上が16人、その上が32人・・・と倍々に増える。10代さかのぼっただけで、2+4+8+16+32+128+256+512+1024=2046人となる。途切れることなく命がリレーされ「いま」私もあなたも「ここ」に在(あ)る。ただごとではない。

ここでもう少し考えてみたい。いのちと呼ばれているのに2種類あるようである。ひとつは太古の昔から途切れることのなかった寿(いのち)、もうひとつは私一代限りの命(いのち)である。現代人は死は無であると思っているらしい。確かに私一代限りのこの身体つまり命は死ぬことに於いて消滅するように観える【火葬場で焼かれて骨となる】。

ここで横道にそれるが死について考察してみたい。死にも一人称、二人称、三人称がある。
一人称の死は「私は死んだ」であるが、これはあり得ない。何かを認識するには認識する主体が必要であるが、自分の死は自分で認識することができないからである。生が終われば死も終ると言われる所以(ゆえん)である。ついでに言えば人は病気で死ぬのではない、生まれたから死ぬのである。死を恐れるのは生きているからであるが、良寛禅師であったか、災難を免かれる方法を問われて「病む時は病むがよろし、死ぬ時は死ぬがよろし」と応えたという。

二人称の死は「あなた」「きみ」「おまえ」と呼んでいる極く近い人、あるいは親しい人の死である。これはある意味で自分が先に逝く以上に悲しいことではあるまいか。連れ合いの死、親の死、子の死を経験された人ならうなづいてくださるであろう。

三人称の死とは第三者つまり縁もゆかりもない人の死である。どこかの国で自爆テロがあり、30人死亡との記事を読んで痛ましいとは思っても、辛くて食事もろくろく喉を通らないなんてことはない。どうかするとその記事を読みながら食事ができる。私達に観えるのはこの二人称の死である。もっと正確に言えば私達に観えるのは死ではなく死体である。死体は観えるが死そのものは観えない。死は観えるものではなく、体験するものらしい。死は誰にも語れない。

私達は二人称の死【死体】を観て、自分の死と重ねる。すると死ねば焼かれて無になる、と認識する。分らないでもない。それにしても無【もとの形がなくなる】になるのは、命(いのち)であって寿(いのち)ではない。ややこしく聞こえるかもしれないが、命【身体】は消えるが寿(いのち)は続く。いえ、寿(いのち)は始まりもなく、終りもない、無始無終であるから、命は寿から生れて寿へ戻ると考えられる。命を「小さいいのち」とし、寿を「大きいいのち」とすれば「小さいいのち」は「大きいいのち」から分れて【大きいいのちに包まれているのだが便宜上】この世に生れ、死んだら「大きいいのち」に戻ると考えていいのではないか。

つまり私達は死ぬのではなく、姿形(すがたかたち)が変わると考える方が「無」になると考える考え方より真実に近いのではあるまいか。

トルストイは彼の著書人生論の中で「胎児が生れてくるのはべつに生れたいと思うからでも、生れるほうがいいからでも、生れるのがよいと承知しているからでもなく、すっかり成熟して、それまでの存在をつづけることができなくなったからである。新しい生命がよび招いたというよりはむしろ、それまでの生存の可能性が消滅させられたために、当然新しい生命に入らざるをえないのだ。」(第9章、人間における真の生命の誕生)と言っている。

いづれ私も姿を変える。恐くないと言えば嘘になるが、次の世界がいかなるところなのか興味がないこともない。ひよっとしたら人間の頃を懐しく思うかもしれない。

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