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季刊誌「せおと」-fileNo.012-あなたは、それでよろしいのですね

fileNo.012あなたは、それでよろしいのですね

『良心に訊(き)けの心』

この頃[年を重ねるにつれ]自分が若い頃とった言動をフッと思い出すことが多くなっている。思い出すというより湧いて出る感じである。車の運転中、洗面の途中と場所を選ばない。その度に「ああ、バカだなあ」「まずいこと言ったなあ」とつぶやく自分である。何か過去の自分の言動に報復されている感じであり、他人は騙せても自分は騙せないなあ、とつくづく思う。

2007年の漢字は「偽」であった。うそ、いつわりである。
食品の偽装問題が相次いで発覚したり、防衛省の汚職事件があったりで少々うんざりであった。また、その謝罪会見もおそまつでその場を言い繕(つくろ)う観であった。そう言えばこの頃聞かなくなった言葉に「良心に訊け」とか「胸に手を当てて考える」がある。国語辞典によれば良心とは「自分の言行の善し悪しを判断する意識」とある。善悪の判断基準は個人の内部に存在する。個人の内部にあるから内的規範といい「私はやりたくないからやらない」という表現になる。これに対して法律や規則は外的規範で「禁止されているからやらない」という表現になる。内的規範は自分が善悪の判断基準であるから考える必要がある。それに比らべ外的規範は守るべきこと、あるいは行動した場合の罰則が明示してあるから考える必要などない。誰かが決めた規則に従うだけでいい。仏教ではこのように盲目的に従うのを「畜生」という。「法的に問題はない」という表現はこの内的規範[良心]が希薄になってきている証なのだろうか。

ところでこの「良心」と呼ばれるものは、私達のどこにどのように在るものだろうか。日常生活では「私」とか「僕」という代名詞でこの「自分」を表現する。自分の意志で仕事に行き、自分の意志で食事をし、自分の意志は眠ると、自分は全て自分でコントロールと思っていないだろうか。ほんとうにそうだろうか。自分の心臓や胃・腸などの内臓の働きはどうだろうか。自分が眠っていても心臓は動き血は巡る。胃だって食事の後に命令しなくても消化してくれる。私はこの自分の意志の届かぬ世界を「他分」と呼ぶ。自分と呼んでいる自分は「他分」という基礎の上に成り立っている。他分は人智を越えた「大きな力 [大宇宙の力と言ってもいい]」の働きである。
仏教ではこれを「他力」という。「良心」とよばれるこの内部にあって、絶えず自分の言動にチェックを入れるのはこの大きな力の働きだと思う。天与の力である。人は多分誕生の時に頂いたに違いない。もちろん小さな種子として。その種子を育てたのは両親であり、その子を取りまく大人達であり、いえ人だけではなく自然環境でもあったろう。

良心が天与のものだからと言ってほっておけば曇る。
昨年2月若冠47歳で亡くなった哲学者の池田晶子は「良心の声は微(かす)かでよくよく耳を澄さないと聞きとれない」と書いている。良心は声高に責めたりはしない。静かに「それでよろしいのですね」と語りかけるだけだ。
この世は社会があって個人があるのではない。個人の集りが社会なのだ。法律や規則は社会の申し合せ事項である。個人は社会に、良心は申し合せ事項に先立つ。

また、法律や規則は為したこと[行為]の是否は問うが為さなかったことには言及しない。良心は為さなかったこと [例えば仕事の手をぬく]にも「それでよろしいのですか」と問う。
社会の住み心地は個々人の良心できまる。国家公務員倫理法があっても防衛省前事務次官はワイロを受け取り、高齢者虐待防止法を整備しても虐待は相変らずのようで居心地が悪い。

それにしても法律には時効があるが、良心には時効はない。下手すると生涯胸を痛めて暮さなければならない破目になる。前出の池田晶子はまた言う「良心が与えられているということは、それ自体が人生の意味である」と。人が生きている意味、幸福は外ではなく内にある。

〈注〉池田晶子さんは『14歳からの哲学』をはじめ多数の著書があります。以外と読みやすい本です。気が向かれたら読んでみてください。

平成20年冬季号より

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