『自燈明(じとうみょう)・法燈明(ほうとうみょう)の心』
お釈迦さまの臨終の絵図には多くさんの動物が集まり悲しむ様子が描かれています。
お釈迦さまの側近中の側近である阿難(あなん)【尊者(そんじゃ)】も師【釈迦】の死に臨み彼に訴えます。
「世尊(せそん)【お釈迦さま】よ、私は今まであなたを目標にし、あなたを燈びとして生きてまいりました。あなたの亡き後私は何を【誰を】たよりに生きていけばいいのでしょうか。」
その問いにお釈迦さまは「阿難よ、よく聞きなさい。私の亡き後は自からを燈び【自燈明】とし、法を燈び【法燈明】として生きるのですよ。」と応え【答え】られます。
ですから自燈明・法燈明はお釈迦さまの遺言なのです。自らは平たく言えば自己【自分】のことです。
しかし、この自分は「言われたから言い返した」「叩かれたから叩き返した」というレベルの自分ではないようです。
自分という言葉で包みきれない自分「俺が、俺が」と何でも意のままになりそうなのに意のままにならない自分。
いのちも「自分のいのち」のようだけど、自分が創ったいのちでもなく、自分の勝手になるいのちでもない。自燈明の「自」はいのちの不思議さ、四十億年生き続けるいのち、誰とも代わることのできない「この私のいのち」に気づいた者が言える「自分」のように思えます。
法は仏法のことですが、仏教の教えではなく、宇宙の法則、人間の意志を超えた宇宙の営み、自然の理(ことわり)です。お釈迦さまは自分の教えを説いた人ではなく、法を発見された人なのです。
自分の思いの届かぬところでこの世に生を受け、病み、老い、そして死ぬことになっているんだという自然の摂理の発見者なのです。その法を燈びとせよ、と説かれています。
私には、自燈明とは自分を救えるのは自分ですよ、それは「この世に生まれてきてよかった」と言えること。法燈明は「あなたは願われて生まれてきたのですよ、この世に必要な人なのですよ」と聞こえてきます。
平成17年夏季号より