特別養護老人ホーム美樹園 | 社会福祉法人南陽会鹿児島 谷山 老人ホーム 特別養護老人ホーム

季刊誌「せおと」-fileNo.029-ほとけのまなざし

fileNo.029ほとけのまなざし

『ほとけのまなざし』 今朝(6月9日)隣りの老婦人が、ビワを手みやげにカボチャの雄花が欲しいとやってこられた。昨日も家内の同級生がやって来てカボチャの話になり、私が雌花は咲くが受粉がうまくいかないのか結実しないと語ったところ、この頃「虫」達が少なくなって自然交配がうまくいかないという。場合によったら人の手で交配させる方がいいかも、と言って帰った。私はそもそもカボチャなるものが好きでないので今まで植えずにいたが、家内のカボチャ料理が以外と好評なので、今年はひとつ俺が育ててみようかと苗を買った。どこへ向かって伸びてもいいように庭の片隅に植えておいたら成長は早く、つぎつぎと雄花・雌花が咲くけれど結実せず落ちてしまう。しようもない薀蓄(うんちく)を語れば、ある種の植物には雌雄(しゆう)同株(どうしゅ)と雌雄(しゆう)異株(いしゅ)とがあって、カボチャやスイカ・キューリなどは同じ蔓(つる)に雌花も雄花も咲くから雌雄同株であり、イチョウとかヤマモモは男木と女木があるから雌雄異株である。ついでに書くと我家の西側にあるオニグルミの木は、昨年から雌花も雄花も咲かせているけれども実にならない。良くみると咲くタイミングが合わないのである。雄花が雌花よりかなり早く咲いてしまう。雄花の機が早いのか雌花が遅いのか、私には分らない。

話を元に戻すと隣りのご婦人もカボチャが実にならないので、人の手で受粉させようと雄花をもらい受けにやってこられたのである。二人して庭の隅に行ったが、残念ながら我家のカボチャも立派な雌花だけで雄花は咲いていなかった。

ここまで書いてふぃと想い出した詩がある。(もちろん全部憶えていたわけではなく、文庫本から書き写す。)


『生命は』  吉野 弘

生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい

花も めしべとおしべが揃っているだけでは 不充分で 虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする 生命は その中に欠如を抱き 

それを他者から満してもらうのだ


世界は多分 他者の総和 しかし 互いに 欠如を満たすなどとは 知りもせず

知らされもせず ばらまかれている者同士 無関心でいられる間柄 ときに

うとましく思うことさえ許されている間柄 そのように 世界がゆるやかに構成されているのは なぜ?

花が咲いている すぐ近くまで 虻の姿をした他者が 花をまとって飛んできている

私も あるとき 誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき 私のための風だったのかもしれない

浄土真宗の門信徒である私は、この詩を書き写しながら、花も虫も風も他者も虻もぜ~んぶ阿弥陀仏(あみだぶつ)なのだと思う。阿弥陀仏(宇宙の力)によって生かされて在る自分を思う。飛躍するが齢を重ねる毎に人は人によっては救われないという思いがつよくなっている。妻や子が頼りにならないと言っているのではない。いかに親や子、夫婦の人間関係に恵れようと「私」という魂の問題は残る。どこから来て、どこへ往くのか、何のためにこの世に生まれてきたのか、と問うその「私」のことである。救われるとは、いついかなる状況に置かれても、私は私に生まれて良かったと人生を肯定できることに出会うことだと、今思う。そこに到るには、人間関係よりもう一段上位の力(宇宙力・仏)との関係が必要な気がする。

      『化けそうな 一軒家あり 蛍狩』  あきら

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