『出かける前々日に家内へメールが届き今回は「牧水生家」「百済の里」「鶴富屋敷」「通潤橋」を見学しましょうと書かれてあったらしい。それを声高に読みながら「まきみずさんて誰?」と聞いた。それって「ぼくすいさんじやない」と答えるのにほんの少し時間がかかった。』
幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく 牧水
この歌を知ったのは多分高校生の頃だったであろう。将来に絶望したと言えば大袈裟だが何か先々に希望が持てなかった頃だった気がする。
それこそ消しゴムで消せるものなら消してしまいたい頃のことである。仲間内の浜田さん風に言えば「そんなもんは山ほどあるからカプセルに詰めて胸の奥にしまい込んである」そういう昔のことである。
十月末、以前から行きたかった宮崎県の椎葉村行きが叶うことになった。
知り合いに行きたいところは?と聞かれて「椎葉村!」と答えたら連れ合いに「あんたの故郷(いなか)と同じ山奥じゃん!」と半分貶(けな)されたことがあった。
そもそもなぜ椎葉村なのか自分でもよく説明ができない。敢えて理由をつければずっと以前テレビでみた日本で唯一焼畑農業が残る村が残っているのかもしれない。
生れ在所も戦後の昭和二十年代は焼畑農業で飢えを凌(しの)いだと記憶する。山野の樹木を切り払って焼き、その草木の灰を肥料として唐イモ、ソバ、粟等を蒔き収穫するのである。自宅より標高の高い山での作業なのでずい分難儀であった。
そんな椎葉村のどこが観たいのかと再度問われ、あてずっぽうに「椎葉ダム」「鶴富屋敷」等を並べた。問うた人があのあたりだと「百済の里」もあるなと言う。
出かける前々日に家内へメールが届き今回は「牧水生家」「百済の里」「鶴富屋敷」「通潤橋」を見学しましょうと書かれてあったらしい。
それを声高に読みながら「まきみずさんて誰?」と聞いた。それって「ぼくすいさんじやない」と答えるのにほんの少し時間がかかった。
後日訪ねてきた助産師の麦田さんがこの話を聞いて「私もまきみずさんの口だ!」と笑った。
若山牧水の生家を訪ねるとなって手元にある一冊の本を思い出した。二〇一〇年出版の「ぼく、牧水!」(角川書店)で俳優の堺雅人と歌人伊藤一彦の対談集である。
二人は宮崎県出身で高校時代の師弟関係にあり伊藤一彦先生が高校教師を退職後若山牧水記念文学館の館長をしているとある。どうやら牧水生家の近くに記念館もあるらしい。
何しろこの行程を日帰りするので朝は早い。東回り自動車道を北上して九時すぎには日向インターを下りて山へ向う。記念館着は開館間もない時間で入館者は我々三人だけである。
受付で伊藤先生は今も館長さんかと訪ねるとそうだと言う。ご在館かと重ねて問うと不在とのことであつた。いらっしやればサインがほしかつたと持参した本を取り出すと忙しい人で全国を飛び回っておられます、と笑って来館を歓迎してくれた。
生誕地は川向いとのことで館内見学を終えてそちらに向う。そこは坪谷(つぼや)川というきれいな流れが直角に向きを変えるところで祖父や父親が医業を開いていたというだけあって南向きの大きな立派な家である。通りから屋敷への上り口が数段の石段になっており両脇に咲くつわぶきの花に秋の到来が思われた。
もう少し牧水について書き加えると明治の終り頃から大正時代に活躍した人気歌人で石川啄木や北原白秋とも親交があったといい、石川啄木の臨終にも立合い葬儀の準備も手伝ったらしい。
全国を放浪していたが坪谷には奥さんと四人の子があり優しい父親であったと語り継がれている。昭和三年四十三歳で静岡県は沼津で亡くなっている。
その後百済の里を経て椎葉村鶴富屋敷へと向う道は人口湖沿いの悪路でなかなか辿り着けない。一時間近く走り続けて山ん中だけれど妙に明るい開けた場所へ着く。そこが「椎葉銀座つるとみ通り」という名の観光地であった。
鶴富屋敷とは平家の落人伝説で平家を追ってきた源氏の武将と平家の姫とが恋に落ち一緒に暮らしたといわれる家で木造の壮大な造りであった。
この後九州山地の長いトンネルを抜け通潤橋経由で帰路についたが、最初の思いになかった牧水生誕の地が加わりずい分と得をした気分であった。
仏典の言葉に「独死独生独去独来」があり心情の世界では人間(ひと)は独(ひと)り生れて独りで死んで往く存在とある。にぎやかに裟婆[社会]の生活をおくりながらふと「寂しさの終てなむ国」を想う瞬間(とき)があるのかもしれない。
白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずだだよふ 牧水
令和2年冬季号より