『いのちの不思議』 さわやかだった五月、連休の終りに一族郎党20人近くが集まって飲んだ。都合よく高知のカツオのタタキが届けられておりおいしくいただいた。その折「目に青葉 山ほととぎす 初ガツオ」が話題となったが、これが俳句なのか、作者は誰なのか、知る者がなかった。
二週間位後の長男からの携帯メールによると、松尾芭蕉にも影響を与えた江戸前期の俳人山口素堂(そどう)の句で正しくは「目には青葉 山時鳥(ほととぎす) 初鰹」だという。
5月24日の朝方、午後から雨との天気予報だったので裏の梅を収穫することにした。この梅の木の所有権は無いのだけれども、宅地の前所有者からの引き継ぎ(?)でここに越して以来10数年、毎年頂いてきた。ところが昨年はまったくの不作、今年も例年の10分の1程度、2.5㎏の収穫量であった。
その梅採りの最中、家の真上あたりから海側の松林へ飛びながら鳴く時鳥の初音を聞いたのである。追いかけるようにウグイスのホーホヶキョも届いてきた。
今も我が家の本棚にある古ぼけた児童用の鳥類図鑑(ずい分昔、家内の父が孫へ買ってくれた)によれば、時鳥の聞き做(な)しは「てっペんかけたか」とか「特許許可局」らしいが、私の在所では「ちょんちょん千代袈裟(ちよげさ)か」と鳴くと伝えられ、今もそう聞える。
その鳥類図鑑を読み進むと時鳥はウグイス(鶯)の巣に託卵するとあった。以前テレビ番組で観たのを思い出したが、時鳥は自分で巣を作らずウグイスの巣に卵を生む。その時、親の時鳥は数合せにウグイスの卵を一つ持ち去る。もっとげつないことには早く孵(かえ)った時鳥の羽毛も生えていないヒナは、巣の中にある他の卵(つまりウグイスの卵)を全部巣の外に落す。そして自分だけがウグイスの親からエサをもらい成長する。
人間の倫理とか道徳の側から観ると時鳥はなんともずる賢く、ウグイスは愚かでけなげであるが、どちらも彼女達の自己責任ではない。双方の先祖代々が努力してそうなったのでもなさそうである。
なぜだかそう生きるように遺伝子に書き込まれた本能によるのであろう。それにしてもこの託卵方式で時鳥もウグイスもよく生きのびてこられたなあ、と感嘆する。
人もまたどのような遺伝子を持たされてこの世に存在しているのかと妄想が拡がる。人類は進歩し発展しているように見える。宇宙や人工知能の開発などで日常生活も飛躍的に進歩して便利に快適になっている。しかし、それはホモ・ファーベル(工作人)あるいはホモ・エコノミクス(経済人)としての人類の進歩ではあるまいか。つまり生活の豊かさ、物質的豊かさへ偏った進歩ではないのか。物質的進歩は戦争の道具も進歩させた。石を投げ合って戦ったであろう石器時代から今や大陸間弾道ミサイルに核まで運ばせる。世界各地でのテロの頻発は憎しみが増幅しているように見えて人類は進歩しているとの表現には首を傾げたくなる。
人は自分の人生を俯瞰(ふかん)できないように、人類も人類の行く末を俯瞰できないであろう。物の豊かさに目が眩み進歩しているつもりが奈落の底へ真っ逆さまということもあるだろう。人類は今どこにいるのか。種として成長しているのだろうか。人でいえば青年期か壮年期かそれとも老年期なのだろうか。
いつの頃か「有るものを教えて無いものを教えないようにしよう」と思い立って心がけている。齢(よわい)を重ねると何かが少しづつ、あるいは突然に不自由になる。聞えていたものが聞えなくなったり、見えていたものが見えなくなったりする。座った姿勢から立ち上がるのがおっくうになったり、立っているのがきつかったりもする。用を思い立ってある場所に行くのにそこに来た理由を忘れて元に戻ったり、数えればできなくなったことが確実に増えている。できないこと、できなくなったことを嘆かず、残っているできることに目を向けて歩こうが「有るものを数える」である。無いものとは老年期の者にとって若さであり健康である。老いたくない、病みたくない、死にたくないと老病死に抵抗し若さ健康・生に限りなく執着する。無いものを数えないとは執着を突破する試みでもある。
仏教は執着するのを煩悩(ぼんのう)だと教えている。人間の持つ五欲(食欲・色欲・睡眠欲・財欲・名誉欲)は本能であって、それに執着するが煩悩らしい。欲(よく)【ねがいとも読む】は人を成長させる原動力で否定できるものではないが、執着しすぎるとよろしくないらしい。
あ~あ、人も時鳥もめんどくさい!
浮雲の 身にしありせば 時鳥 しば嗚く項は いづこに待たむ 良寛
平成29年夏季号より