【大空という浄土】親は会葬御礼に「大空へと旅立ちました」と書き記したが、宗派用語なら「浄土へ還った」と言いたいところである。花びらは散っても 花は散らない 形は滅びても 人は死なぬ 金子大榮「意訳歎異沙」より
まことに急な旅立ちであった。二月二十日孫【娘の長女】の直(なお)が亡くなった。この日は定例の外来診療日とかで大学病院の脳神経外科の待合室の娘から妻への電話で「直が大変!」であった。
兄の信(しん)と弟の啓(けい)を西谷山の家で拾い病院の玄関へ三人をおろしたのが十時四十分頃である。駐車場から後を追ったが直はすでに心肺機能停止状態で心臓マッサージを行いながら救急センターへ運ばれるところであった。
死亡時刻十一時四十三分、死亡診断名「致死性不整脈」素人目には突然死である。その日の朝お母さんと二人で病院へ行くのを喜び、三階への階段を急いで昇り待合室の手前で「疲れたのかなぁ、お腹が痛い!」と廊下に倒れたらしい。大学病院のことだから救急対応も早かったらしいが蘇生することはなかった。
直は四月二日生まれであったから間もなく十三歳となる短いといえばまことに短い生涯であった。午後二時頃には救急センター入口に葬儀社の車が現われ数時間前に歩いて玄関から入った直が裏口風の出口から霊柩車で帰る事態に涙は出るが悲しいという実感はなかった。
薩摩川内市に居住していた二歳の頃、大泣きした後の異変に母親が気づき知人の紹介で串木野脳神経外科病院を受診、MRI画像にて異常が判明して大学病院受診となり「もやもや病」と診断される。
正式にはウィリス動脈輪閉塞病らしいが脳内の異常血管網がタバコの煙のようにもやもやと映し出されるので「もやもや病」の別名があるらしい。発症には小児型と成人型があり、学童期の発症では脳梗塞を起こすことは少ないとされるのに五歳以下の乳幼児では脳梗塞で発症することが多く症状も重篤になる場合が多いという。直が発症した二歳そこそこは極めて前列も少ないらしく説明を聞くほどに治療の難しさが伝わってくる。
平成二十五年七月検査入院を経て八月初旬に左前頭部の間接バイパス手術を受ける。この手術は脳血流が不足する部分に頭皮の血管を頭蓋内に引込み血流を補うものらしい。手術前の同意書では致死率、寝たきりになる率などが説明されたので親共々肝を冷した。術後の付添いには六月に生まれたばかりの啓がおり授乳などで病院と家を往ったり.来たりで親も子も目の回るような生活であった。
術後の経過は良好で予定より早く退院した記憶があるが翌年四月、三歳時に二回目の右側面の間接バイパス手術となる。その後定期的に大学病院の脳神経外科・小児科の診療を受けながら家庭で養育されるが近くの幼稚園に通いつつ薩摩川内市の子ども発達支援センターつくし園などで療育指導を受ける。一時期目が見えなくなり盲学校の視覚障害児の支援教室にも世話になる。
就学期を迎えると養護学校訪問を重ね桜ヶ丘養護学校を希望して現在の西谷山の家へ転居する。
午後六時に始まった通夜式は三十分程度で終ったが焼香の列は続き、焼香が終っても鹿児島南特別支援学校の児童や保護者の皆さんや先生方が直と親に声をかけようと列をなし十時半頃まで柩をはさんでの泣き笑いが続いた。後日次男(直の伯父)が「こんなに泣いたことも、こんなに温かい気持になったことも初めてであった。直ちゃんの徳のおかげでしようか」とメールをよこした。
弔問客が引けた深夜の控室で生前の直の言動が語られた。桜ヶ丘養護学校二年生の頃のことである(彼女の知的能力は五歳程度であった)が学校で教えられたので、ある日突然「パパ」「ママ」が「お父さん」「お母さん」に変わるのである。兄は「信くん」から「お兄ちゃん」へ、弟の「啓くん」は「おとおと」となった。「おとおと!」と大声で呼び始めたらしいが親に諭され「啓くん」に戻ったという(笑)。ついでに「せおと」【人間(ひと)と生まれて 令和元年秋季号】にも直と啓のやりとりがあるので読んで欲しい。
親は会葬御礼に「直は令和六年二月二十日満十二歳にて大空へと旅立ちました」と書き記したが宗派用語なら「浄土へ還った」と言いたいところである。浄土といえば「そんなところがあるのか?」と笑う人がある。
島根県の妙好人(みょうこうにん)【信心深い人】浅原戈市(さいち)さんは次のように書き残している。
しゃば(裟婆)のせかい(世界)わ、ここのこと、ごくらく(極楽)のせかいも、ここのこと、これわめのまくきりをゆうこと【目の幕切り、目の開閉の一瞬】。
弟の啓も言う「【家族は】四人になったけど五人だよね」と。
花びらは散っても 花は散らない
形は滅びても 人は死なぬ
金子大榮「意訳歎異沙」より
令和6年春季号より