『喜び・楽しさには辛さ・悲しさが、優しさ・暖かさには虚しさ・寂しさが織り込まれて人生がより美しく鮮やかになる。慈しみ合う出遇いもさることながら憎しみ合うのにもよくよくのご縁があるのであろう。』
「け死もごちゃねどん、生きちよっとものさんね~」がこの酷暑の中での罰当り的夫婦の会話である。ついでに「年寄り殺すに刃物はいらぬ。エアコン三日も止めりゃいい」とうそぶき、天を怨み人を罵って暑さを凌いでいる。
良寛さんの「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」なんて境地には程遠くクーラーの前に寝そベって暮している。
そんな八月二十六日、田舎の兄から退院したとの電話があった。七月七日[七タ・母の命日]近くのホームセンターで転んで右だか左だかの大腿骨を骨折して入院加療中だったのである。
入院のことはいち早く次姉が電話で知らせてくれた。手紙に添えて見舞金品を届けておいたのでそのお礼と思われた。
受話器を置いた後、妻に「お見舞いのお礼を言われた?」とたずねられたので少し考えて「いいや」と答えた。初めての救急車、初めての入院生活、今の症状、これからの治療は語られたがお礼の言葉は見当たらなかった。
この兄、と言っても兄はひとりしかいないがずい分とお世話になった。
父母が続けて亡くなった時、兄もまだ独り身で他に弟妹が五人いた。私を大学へ弟を高校へ妹達をそれなりに嫁がせたのだから苦労したに違いない。ある時「兄弟が多いと助かるよね」といったら「おれはそれで難儀した」と返されて出生順位で感じ方苦労が違うのだと思い知ったことがある。
兄には恩を感じている。
父が存命の頃、何があったのか今も解らないが兄が家出した。小学高学年だったと記憶するから十歳年長の兄は成人したばかりの頃であったろう。静岡は下田に住む叔父をたよった筈である。
兄がいなくなって自分が農家の後継ぎをすることになるかもしれないという思いがかすかに残っている。
父と子が争うのはギリシャのエディプス神話や仏典の王舎城の物語にもあるように[たとえが大袈裟だけど]洋の東西、今昔を問わぬものらしい。
もっともこの家出劇は1年位で終ったようだ。
「チチキトク スグカエレ」の電報で兄は呼び戻される。
父と叔父の間でやり取りがあったのだろうが運転免許証を手に入れて帰ってきた。もちろん父は達者でピンピンしていた。
昭和二十年代の終り、太平洋戦争が終ってまだ十年経っていない頃のことである。
人生も終りが近くなると終着点から出発点を振り返って眺めることができる気分になることがある。生れてから今日までどれだけの人に出会ってきたことであろうか。生れ在所、学校、職場などおそらく千人は下るまいが、親子として兄弟姉妹として夫婦として出遇う縁にはとてつもなく深いものがあるのであろう。
こんな気分の時は中島みゆきの歌がいい。
「糸」
なぜ めぐり逢うのかを私たちは 何も知らない
いつ めぐり逢うのかを私たちは いつも知らない
どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 小たつの物語
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
[2番もいいけど省略]
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合せと呼びます
白川静の「常用字解」によれば「逢う」は「遇うなり」とあり、遇うは神秘的で不思議なものにあうことをいう、とある。
中島みゆきは「逢うベき糸に 出逢えることを 人は 仕合せと呼びます」と歌いあげるが、ことはそう単純ではないともう一人のへそ曲りがささやく。
出遇いに喜怒哀楽はつきものである。あなたなしでは生きていけないがあれば、お願いだからどこかに消えてくれという思いの関係もある。
がしかし、とまたひっくり返す。
喜び・楽しさには辛さ・悲しさが、優しさ・暖かさには虚しさ・寂しさが織り込まれて人生がより美しく鮮やかになる。
慈しみ合う出遇いもさることながら憎しみ合うのにもよくよくのご縁があるのであろう。
電話のあった翌日兄から現金封筒が届き「快気祝い」の熨斗(のし)の貼られた商品券が入っていた。兄と呼び弟と呼ばれるこの世の間柄にそれほどの時間は残っていまい。
人生には限りがある。それがまたいいとこの頃は思える。
中島みゆきの歌に次の一節をつけ加えたい。
いつ 別れるのかを 私たちは 誰も知らない
令和2年秋季号より