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季刊誌「せおと」-fileNo.038-巡る(めぐる)命

fileNo.038巡る(めぐる)命

『巡る(めぐる)命』 この文章を書き始めた12月初旬、我が家の楓(もみじ)は大方紅葉して散り果てた。山ぼうしも2本の柿の木もすでに葉は無い。

 そういえば植えてから10年経つ「鬼ぐるみ」が今年初めて実をつけた。この樹もすっかり葉を落している。

 この季節を迎えると何となく店仕舞いを勧められている感じがある。春の萌え立つ命が夏の盛りをすぎ、静かに退場するさまは、あなたもそろそろと北風に背を押される気分になる。

 哲学者池田晶子の「暮らしの哲学」で次の文章に出会った。『季節と人生は不可分に己に迫る。晩秋の夕暮れは寂しい。この寂しさは「終わりに向う」歩みにある。「終わりに向う」とは「死に向う」と同義語である。己のいのちと植物のいのちは同じいのちである。由に季節と人生は重なって感じられる。』

 「ほら、やっぱり!」と同志を得た思いがする。

 また、『日本人は「自然を愛する民族だ」と言われてきたが、厳密に言うと「季節を愛する民族だ」』と言った人もいる。思えば季節には、太陽暦(新暦)の1年を四等分した四季・春夏秋冬の他に二十四等分した二十四(にじゅうし)節気(立春から始まり、春分、夏至、秋分、冬至等があり大寒で終る。)旧暦で1年を七十二に分けた5日または6日間を一候として、その時候の変化を示した七十二(しちじゅうに)候(こう)とがある。まことに細々こまごまと観察して言葉にした先達に脱帽である。

 季節は一刻も止とどまることなく変り続け、直線的に進むように見えて、また回帰してくるという循環性がある。季節は巡るのだ。

 この「せおと48号」が発行される頃は、また正月である。またと強調したのには二つの理由がある。ひとつは「やれやれ!またひとつ歳を重ねたのか。」であり、もうひとつは巡る季節のはじまりの感じである。実際の季節とはすこしずれるけれども、年賀状は「新春」「迎春」の文字で賑わう。

 古い話しだけれども昭和40年代岡林信康というフォークソング歌手の作詞作曲で「山辺に向いて」という歌があり、その中にこんな一節があった。

  山の雪は川に落ち  川は海にそそぐ  

  水はいつか空の雲 流れるように

  姿を変えて命はめぐる  街から遠く

  そんな風に見えた・・・・・・

解釈するほどのことはないが山に降った雪は融けて流れて川となる。川は田畑を潤しながら海へとたどり着く。海で暖められて水蒸気となって空に昇り雲となる。雲は風に吹かれて山へと運ばれ雪となる。まさに姿を変えていのちは巡るのである

 我々の認識は自分(私)が主体となる。私に見える、私に聞こえる、私が感じるというように主語が必ず私になる。そこから私はこう思う、こう考えるにつながり、あなたの思い・考えは間違っていると争いが始まる。私が主語(主体)である限り必ずそうなる。

 この文脈でいのちが語られ「私のいのち」となるあたりで齟齬(そご)が生じる。認識は自分が主体だが、いのちは自分の認識に先立つ営みである。私が思って考えて画策して生まれたいのちではない。自分が認識主体となる前にそこにいのちが存在していたのだ。そのいのちに自分(私)と名づけたのである。いのちは我々の認識をはるかに超える。これを不思議(不可思議)という。今もって大きな謎である。

 仏教ではいのちの不思議さをつぎのように解く。生命の生にも命にも「いのち」という意味があり、「生」には「生れる」「成長する」、「命」には「使命」「招喚」の意味も含まれる。成長と招喚は生命が単なる静止した状態ではなく、それ自身の現状をたえず超えていく、働きを含んでいる。この生命の自己超越には二つの方向があり、ひとつはこの世(娑婆しゃば)からあの世(浄土じょうど)へであり、もうひとつはあの世からこの世である。この二つの方向は真逆のようであるが、同じいのちの流れで大きな円環だという。往く道が還る道である。人のいのちも巡るのだ。決して無くなることはない。

  春風の  薩摩の人と  話しけり   あきら

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