『垂直の時節(とき)』 この3月1日、出身高校の卒業50周年記念同窓会なる催しに参加した。開催する旨の連絡は昨年の夏頃からあり、実行委員だよりも何回か届けられていた。以前卒業30周年同窓会もあり、その時は鹿児島市在住の同級生数人と三年時の担任の先生もご一緒にJRでワイワイとにぎやかに参加した記憶がある。卒業30年は48歳で、今回は68歳である。今回の案内が届いた時「おぉ!ここまできたか」。という感慨であった。
この会はやたらと盛りだくさんで、午前中は現役の卒業式に参列し、午後は市内(薩摩川内市)観光、夜は市比野温泉近くのホテルグリーンヒルで宴会、翌日はゴルフ組と県内観光に別れて続くのである。卒業式への参列なんて気恥ずかしく、市内観光は乗り気がしないと選んでいたら夜の宴会だけが残って、「宴会のみ」の申し込みとなった。参加そのものに少々ためらいもあったけれども、拒絶する程の理由もなく、次回の同窓会など考えにくいので年が明けてから参加費と寄付金一口を振り込んだ。当日は薩摩川内市内に住む娘の住まいから婿に送ってもらい、開宴15分前に会場に着く。席はクラス別の円卓で、アイウエオ順に名札が置いてある。参加者126名だと言い、名簿付の会順表が渡される。開会後すぐ亡師・友へ黙とうがあり、亡くなった同級生37名と聞き、「おぅ!1割弱か(確か定員400名であった。)、意外と少ないなぁ。」と不謹慎にも思ってしまう。実行委員長等のあいさつに続き、会順に無い、岩切薩摩川内市長、川畑市議会長が舞台にあがる。そうかこの二人も同級生だったと思いあたって、思わず隣りの橋口くんに「俺たちの同級生ってすごいじゃん!」と口走った。後で議長にそのことを語ったら「たまたま(議長)だよ。」と照れていた。恩師の姿が無いので訊ねたら、亡くなったり高齢なので誰も招待しなかったとのこと、さもありなん、俺たちが間もなく「古稀」だもんなぁ!と納得した。出席していながら変だけど、私は同窓会があまり好きではない。学業、スポーツ、その他諸々パッとするものがなかったからなぁ!とも思う。同窓会って恩師にも級友にも遭うが、あの頃の自分自身にも出遭うことになる。今の社会情勢に比べれば、いい時代だったのかもしれないが、将来何になるのか、なれるのか、誠に心配な時代(年頃)だった。
青年期、人が成長する時期、目はやたらと外に向き、競い合い、比べ合い、この社会の中で有用性(社会的地位とか財を為すとか)のあるものに価値を置いて生きてきた。それはそれで意味のあることであった、と思う。自分という風呂敷を精一杯拡げて商ってきたが、今や店じまいの時で、外に向いていた目を内に向ける時節だと思う。生まれてこのかた小学校、中学校、高校(大学)と進学し、職を得て世帯を持ち、子育てをしつつ社会生活を営んできた50年(半世紀)であった。横に並べてみる自分の歩みは、外から眺める歴史的時間(水平の時間)である。努力を重ね、辛い悲しい(もちろん楽しいことも)思いをして社会を生きてきたのが水平の時間なら、この自分はどこから来たのか、死んだらどこへ行くのか、この自分はそもそも何者かを問い、自分の内なる宇宙へ戻るのを垂直の時間と呼びたい。今ここに在る自分のいのちの不思議に驚く時と言ってもいい。浄土系仏教では「後生の一大事」、禅仏教なら「父母未生以前の自己本来の面目は何か」という有名な公案につながるところかもしれない。水平の時間に留まるところがない。70年だろうが百年だろうがアッという間である。
そんなに遠くない将来(明日かも)、確実に到来するのはこの身体の死であるが、私は身体だけではない。人は往くという形をとりながら、生れてきた故郷へ還るのである。還るために、還るところ(大きないのち)があるのを確かめるために、私は私の姿になってここに在る。私は私でよかった。多分他の人間は務まらなかっただろうから。それにしても、もうしばらくでこの身体とお別れするのかと思うと名残惜しい。
今や春、桜の季節である。今年も含めて後何回桜に出遭えることだろう。
『さまざまの事 思い出す さくらかな』 芭蕉
平成23年春季号より