『ある山の中で修業している仙人が三年後に死んであなたの子に生れる、と言う。王はその三年が待ち切れず使いの者を出し「王の子に生れる運命だから早く死んでくれ!」とたのむ。仙人「今死ぬのは嫌だ!」。復命を聞いた王「もう一度たのんで承知しなかったら殺せ!」と命じた。』
ここ数ヶ月、テレビ・新聞は毎日コロナウイルスとそれに関連することを報じ続けている。医療崩壊などといぅ言葉を聞くにつれても医療・介護現場の疲労はいかばかりかと心より感謝と敬意を表します。
さて観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の序文にある王舎城の物語のその後を続けたい。
獄中の父王頻婆娑羅(びんばしゃら)は亡くなり宮中の奥深くに幽閉された母韋提希(いだいけ)夫人は解放される。
さすがの阿闍世(あじゃせ)太子も自責の念に駆られひどい悪病[流注(るちゅう)という腫れ物]に苦しむことになる。すごい悪臭を放つできもので誰も近づかなくなったとあるからひどい話である。
誰も近づかない息子の看病に励んだのは母韋提希夫人なのだが薬の効果はなく腫物は増える一方であった。
阿闍世は母へ「この腫物は心が原因で発生したもので身体が原因ではないのです。だれもこれを治療できる者はいないはずです。」と言う。
この状況に大臣達が次々と訪れて自分の師匠【思想家】を売り込む。
六人の大臣がそれぞれ自分の師匠の考え方を紹介し教えを受けるように勧める。
六人の大臣は口々に父王を殺した王は過去にも山ほどいたから気にするなとか誰でもやっていることだから罪にはならない等々阿闍世の今の心情ではなく彼の行為の是非を説き慰め説得しようとする。
阿闍世はその度に「私の父は慈悲深い人で思いやりのある人であった。その父を私は不幸にし恩に報いることをしなかった。その優しい父に逆らって危害を加えた。私はある智者から『父を殺害すれば、数え切れない年月の間、耐えられない苦しみを受けるだろう。』と聞いている。
だから私は必ず地獄に落ちることになろう。こんな私の罪を誰が救ってくれるだろうか。だれもいないのだ。」とどんどん落ち込むのである。
そして誰にも会おうとせず憔悴していく。
後世の人がこれを「六師外道の教え」と呼ぶが、釣り用語の「外道」の語源と思われる。
七番目に登場するのが主治医シーヴァカである。
シーヴァカはブッダ(釈尊)に教えを乞うよう勧めるのであるが、まず阿闍世の今の心情に「すばらしいことです。あなたは確かに罪を造られましたが心に深く悔いて、慚愧(ざんき)の気持を持っておられます。釈尊は次のように説いておられます。」と応じている。
「慚(はじ)る」とは内面に自ら恥しく思うことで「愧(はず)かしめる」とは他人に対して恥しく思うことである。
また、慚るとは人に恥じること、愧かしめるとは天に恥じることである。これが慚愧の意味であり、慚愧の気持がない人は人とはいえず畜生と同じである。
阿闍世太子、あなたは慚愧の心を持っておられます。必ずあなたは救われるから釈尊の元へ行かれよ、と重ねて勧めるが阿闍世は「私のような極悪人がどうして釈尊の側に行けるだろうか。行ったとして見向きもされまい。」とその場を動こうとしない。
その時天上から「釈尊以外に救ってくれる人はいないから今すぐ行け。」と声がする。
その声が父の頻婆娑羅だと知り阿闍世は悶絶して倒れる。その上傷の痛みは一層激しくなり臭さを増した。
この状況を遠くで知った釈尊は阿闍世の為に月愛三昧(がつあいざんまい)という月の光が人々の心を和らげるような働きを持つ三昧に入って身体からまばゆいばかりの光明を放たれる。
その光が阿闍世を包むと傷は癒え清々しい気分になったという。この光が自分に向けられたと知った阿闍世は釈尊を訪ねることを決意する。
二人の対話の中で阿闍世が生れる前の因縁話が語られる。
その昔子に恵まれない頻婆娑羅王が観相家[手相見]に聞くと「ある山の中で修業している仙人が三年後に死んであなたの子に生れる。」と言う。
王はその三年が待ち切れず使いの者を出し礼を尽して「王の子に生れる運命だから早く死んでくれ!」とたのむ。仙人「王の子に生れるのはけっこうだが今死ぬのは嫌だ!」。復命を聞いた王「俺の領土に住んでいるのにけしからん!もう一度たのんで承知しなかったら殺せ!」と命じた。
いやはやいつの世の権力者も横暴である。
仙人は承知せずその死に際に「自分は王の子として生れいつか王を殺すだろう。」と言い遺す。頻婆娑羅王夫妻は恐ろしくなり我が子を亡き者にしょうと画策したが元気に成長して悲劇が起るのである。
釈尊は命もこの世もいろいろの因縁で成り立っている。阿闍世の悪行もお前一人の罪ではない。お前が地獄に落ちるなら私も一緒に落ちようではないかと諭される。
その後阿闍世は世に名君と謳われる王となるのである。
仏典はこの世を楽しく豊かに暮すためのテキストではない。
ましてや経済的豊かさや地位向上に役立つものでもない。
自分【人】の本質を見失わないための道しるべである。
令和2年夏季号より