『終活(しゅうかつ)』 さきの8月30日、生れ在所の隣町に住む父方の叔父が老人会長をやっているという地域の老人会の会合によばれて、一時間余りお話しをする機会があった。そもそも一昨年の秋、父の50回忌法要の折この叔父と久しぶりに会い「俺のところでも何か語ってくれるか」に「いつでも行きますよ」が実現したものである。叔父の家は、生れ在所よりかなり川下にあったが、中学・高校の通学路(自転車)沿いにあった。
父には6人の兄弟と3人の妹がいて、第2子の次男であった。兄弟6人のうち一番上の兄(私には伯父)が後を継ぎ、後の5人は全て他家の養子になっている。従ってひとりとして同じ姓の伯(叔)父はいない。おまけに二人の叔父は、大阪府箕面市と静岡県は伊豆の下田に行き、会ったこともない従兄弟(姉妹)が何人もいる。父の生家は貧乏だったと聞かされたけれども、私には「極貧」だったのだろうと感じられた。
それでも男達は戦争に行った。老人会長の叔父は一番下の弟で、戦時中は予科練(旧日本海軍飛行予科練習生の略)だったらしく、あと一週間終戦が遅ければ特攻隊として出撃する予定だった、と戦友たちから別れの言葉が書いてあるサイン帳を見せてくれたことがあった。幸いに父を含め全員戦地から戻り、正月は祖父(実祖父)宅で陸軍と海軍に別れてナンコ大会に興じ、皆酔っぱらっていた。
祖父の家は伯父宅と同一敷地内にあり、二軒の境界あたりに大きな「いぬまき」の木が一本立っていた。私の生家は祖父宅の上流にあったから、戦地(台湾)から引揚げてきた父はまず、そこに報告に立寄ったのであろう。知らせを聞いてよろこんだ私の家族もかけつけたが、私はその「いぬまき」にすがりついて「父ちゃんではない」と泣いた記憶がある。(それが記憶なのか、後から聞かされたことなのか区別もあいまいである)。父が出征(しゅっせい)[軍隊の一員として戦地へ行くこと]する時、母に抱かれた私はバイバイをした(記憶にはない)というが、長期不在の間に人見知りをするほどになっていたのだろう。私の世代では意外と「知らないおじさんといつの間にか一緒に寝ていた」という話はけっこう多い。そんな幼少時代であった。シベリア抑留(よくりゅう)、中国残留孤児もその頃からの続きである。人は自分の人生(誕生から死亡まで)だけを生きているのではなく、親、それ以前のご先祖も背負って生きる。同じように自分の生き方を、善かれ悪しかれ子に背負わせる。
この原稿を書き始めた頃、終活という言葉を知った。就活(就職活動)、婚活(結婚活動)は聞きなれた感じがあるが、終活とは初耳である。前後をきちんと聞いていないが、多分人生の終末活動か終末期活動の略だろうと思われる。一番人口が多い「団塊の世代」のトップが65歳に到達し「死」が身近に感じられるようになり、宗教の書籍や雑誌の特集が目立つようになったらしい。そのいずれ訪れる死の準備としての終活らしい。エンディングノート、遺言書、自分史の勧めであったりするのだろう。その「終活」の中で「自分はどこからきて、どこへ行くのか」「自分は何者で、何故この世にやってきたのか」が意識にのぼるとするならば「終活」も悪くはない。何しろ我々は死亡率100%の世界に生きて(生かされて)いる。送られる者の「名残惜しさ」送る者の「悲しさ」を共有する者、つまり死を共有する者としての絆が深まるならば有難いことである。ちなみにミャンマー、マダガスカルには「死」という言葉は無く「先祖になる」と表現し、人だけでなく動物達もそのように呼ばれるという。仏教でも死ぬのではなく「仏に成る」と言われている。
想えば叔父達の老人クラブ活動も終活の一環かもしれない。それにしても叔父によばれて「お話し」ができる甥も悪くない、と思ったけれども、その甥も立派な年寄りで終末期にある。
自分の人生の総仕上げや終末の迎え方に思いが向くのはいいとして、どうしても自分の手の届かないことが一つある。お棺というか棺(ひつぎ)は自分の手では閉じられない。無縁社会と呼ばれる今日、どこで行き倒れるにしても誰かの手を借りなければ幕が引けない。とすれば善く死ぬためには善く生きなければなるまい。人生の終末期も死の迎え方をとおして、生き方が問われる。
『虫の夜の 星空に浮く 地球かな』 あきら
平成23年秋季号より