『いのちはことば、ことばはいのちの心』
この頃、魂(たましい)が気になっている。とは言ってもたましいって何ですか、と問われてもうまく言葉にならない。
心とか精神とか霊とかに置き換えてもピッタリくる感じがない。士魂(しこん)とか商魂とか開拓者(かいたくしゃ)魂(だましい)となると何か根源にかかわるものという感じが伝わってくる。プラトンだったか、人生の目的とは「魂の世話をして善くすることである」と言っているようである。また、魂は時間を縦糸にし、経験を横糸にして織り上げていくものである、と表現する人もある。時間とは過去から未来へ、若さから老いへと進み、老いるということは、過去が増え未来が減少することでもある。過去が増えるということは、織り上げる魂の量(?)が増え、つまり老後は精神的に豊かになるはずである。
横糸は経験である。誕生から幼稚園、小学中学、高校への入学そして卒業へとたどる。その間友人ができたり、ケンカ別れしたり、あるいはいじめられたり、いじめたりもあるかもしれない。また恋をしたり失恋したりもあるであろう。入試に落ちて失意の日々あり、他人をうらやんだこともあろう。
家庭は家庭で、父母の不仲で心を痛めたり、過干渉あるいは放任、または父母との生別あるいは死別で経済的にも精神的にも辛いこともあったに違いない。非行にはしった少年時代もあれば、絶望の日々をおくった青年期もあったかもしれない。そして就職、結婚と希望に満ち満ちていた頃や子育てに悪戦苦闘した人もあったであろう。善きにつけ悪しきにつけ人生の歩みはいろいろな出来事に彩(いろど)られる。先人が「三味線の無い家はあるが、こと(琴)の無い家はない」というゆえんである。
その経験を横糸にするとはいかなることなのか。
親の死あるいは子の死に遭遇した時、どのような受け止めようになるのであろうか。
ここで経験は言葉になる。つまり親の死を「私を残して早く逝った。そのためにずい分と苦労した。」となるか、「いのちを頂いてありがとう」となるのか。また、子を亡くして「自分はなんと不幸な人」となるのか、「あの児は亡くなって、私に本当の生き方を教えてくれた」となるのかは、その経験に遭遇した人の受け止めようであり、言葉である。経験は言葉となり、魂は言葉で紡(つむ)ぐ。膨大な経験をその度ごとに「ありがとう」と紡がれるのか、「なんと運の悪い、恵まれないことよ」で紡がれるのか、魂の色あいは違ったものになるであろう。
「ありがとう」で織られた魂は輝やき、「恵まれない」で織られた魂が色あせるのは止むを得ない。
河合隼雄という心理学者が援助交際をしていて「誰にも迷惑をかけていない」と言う女子高校生に「魂が汚れるから止めなさい」と言ったと本で読んだことがあるが、もっともなことと思われる。
私のいのちの源は父母(2人)祖父母(4人)曽祖父母(8人)と途方もなくさかのぼることができる。
私の身体に流れる血には多くの先祖のご苦労が含まれているであろう。今は亡き島田幸昭老師はこのことを「血の記憶」と表現され、人が為すべきこと、為すべからざることは全て血が知っていると常々語っておられた。ただ現代はつまらぬ学問のせいで「血の記憶」が鈍り間違いが多いとも。
この頃(この年齢になって)私は魂も遺伝すると言いたい。
人は死んだらおしまい【無】ではない。いのち【身体】が次世代へ受け継がれていくのであれば、魂(いのち)も次世代の魂へと織り込まれることは必定(ひつじょう)であろう。親の魂が子の魂へと刷り込まれて何の不思議もない。自分一代かぎりのいのちでも魂でもない。
残れる日々を善く生きたい。
平成19年秋季号より