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季刊誌「せおと」-fileNo.015-自己責任とおまかせの世界

fileNo.015自己責任とおまかせの世界

『彼岸花』 中学だったか高校だったか、国語の教科書で「曼珠沙華抱くほどとれど母恋し(中村汀女)」に出会った。記憶は確かではないけれども、母が亡くなった後2番目の姉にこの俳句を話したのだと思う。書いてくれとせがまれて短冊に書いた。その短冊が典型的な農家の造りであった生家の、土間の柱にながいことピンで止めてあったことを憶えている。

その母の50回忌は今年の7月であった。

ついでに書き添えると、この花が咲く頃、仏教の寺院では秋の彼岸法要が営まれる。彼岸とはさとりの世界(最高の状態)のことで、この世(迷いの世界)を此岸(しがん)と呼ぶ。此岸から彼岸へ到着する道を学ぶのがこの法要らしい。

閑話休題。今年の4月初め、娘が第1子を出産した。男の子であった。当初3月下旬が予定日とかで、産前も我が家ですごし、産後5月の中旬にお寺での初参式(しょさんしき)を済せて自宅へと戻った。初めての子育てで不安らしく、よく家内へメールが届いたり、何かと理由をつけて泊りがけでやってくる。観ていると確かに子育ては手間がかかる。お腹が空いたと泣き、おむつがぬれたと泣き、眠たいと泣き、目ざめたと泣く。年寄り2人の生活リズムなどたちまちに消え、家は赤ん坊色に染まる。母(娘)は泣く度に「お腹がすいたの?」「おむつがぬれたの?」「眠たいの?」と声をかけて世話をする。自分の睡眠などそっちのけである。頭がさがる。娘にではなく、母親に対してである。私の母も骨身を削って、私を育てたのである。言い切るほどの記憶があるのか、と問う人があれば、日本語(鹿児島弁)を語り、人にそこそこ優しくできる(他人の評価は別)のが何よりの証拠であると申し上げたい。ただ泣くしか方法を知らない私を、観て聴いて熱あり、お腹が痛いと察知して手立てを講じ、繰り返し言葉をかけたに違いない。優しくされた経験なしに人間(ひと)は優しくなれない。言葉の届かない世界で言葉が習得できるわけがない。返事もしない赤ん坊に来る日も来る日も語りかけ、泣かれても可愛いとあやし続けた母親なしで言葉の獲得なんか有り得ない。

人間(ひと)になれたかどうかもあやしいものである。赤ん坊の頃の記憶など必要はない。血肉となった記憶は、今日(こんにち)ただいまこの私に自在に働いている。現在過去未来の母に感謝である。

自己責任という言葉がある。自分が決意し、行動した結果は全てその人が引き受ける。現在の社会的地位も経済的格差もその人の努力・才覚によるものである。いかにも歯切れがよく、正しい表現のように思えるが、どこか温かみがなく薄っぺらい。おそらく勝ち組の側から発せられた言葉であろう。こんな言葉に惑わされてはならない。

人が生れて生きて死ぬ世界は、自己責任などおよそ届かぬ深みにある。赤ん坊を観れば分ることである。彼はどこで生れることを決意し、両親を選ぶ努力をしたか、性別の選択はどうなったのか。何もかも自分の意志の届かぬ世界である。それはまた、自分1代で収支が合う世界でもない。引き受けたいのちは次へ引き渡すいのちである。自分の意志が私の人生の中で示める割合などたかが知れている。年をとりたくなくても人は老いる。私は努力もせず、無責任に生きてよいと言っているのではない。損得勘定や勝った負けたと比べ比べられるところに真のやすらぎはあるまい。それは得は損を含み、勝ちには次の勝負を含んでいるからである。自分の意志の届かぬ世界はおまかせであり、引き受ける(頂く)のみである。男(女)に生れたこと、恵まれぬ家庭(時代)に生れたこと、たいした才能もなく生れたことを引き受けて(頂いて)生きるということである。どう頂くか。渋々か、嫌々か、喜んでか、そこはそれこそおまかせである。

おまかせの世界は広くて深い。

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