【親ガチャ子ガチャ】私はとか俺がとか人は自分を主語にして語るが、今ここにいるこの「私」の誕生は私の意志に先だつ。ある時気がついたらそこにいたのである。その気がついた存在を私と呼んだのだが中味は正体不明である。その正体不明の生き物に名がつけられ私が俺がと叫ぶのである。
五月二五日の地元紙に「ガチャブーム再来」との記事があった。ガチャは「ガチャガチャ」と呼ばれるカプセル玩具で百円か数百円を投入して、それこそガチャガチャと回すとカプセル入りのおもちやがランダムに出てくる。孫も喜んでやる。記事によれば三〇〇円から五〇〇円がメインで客の八割は成人の女性だという。何が出てくるか分からないところが魅力らしい。
二、三年前「親ガチャ」という言葉が流行語大賞の候補になったことがあった。子ども目線でどのような親に巡り会ったかを当りはずれで言う本気とも冗談ともとれる語り口であったと記憶する。
単純に言えば親 【家庭】が金持ちか貧乏かであり、こと難しく言えば親が裕富なら子は多くの教育費をかけてもらい成人してからの成功率が高いという見立てである。
乱暴な言い方をすれば貧乏は連鎖するということだ。そうかもしれない。その時思ったことであるが、子が親ガチャと言うなら親は子ガチャと言いたいなぁ、であった。子が親の当りはずれを言うなら親だって子に同じようなことを言いたい(笑)。
ところが五日後に「県内児童虐待最多」の記事に出会った。十二年連続で過去最多を更新し心理的虐待やネグレクト(育児放棄)の増加が目立つとあった。主な虐待者は実父と実母で合せて八五%という。このような報道に接すると子どもにとってどのような親に巡り会うかは重大事で「親ガチャ」などと笑ってはいられまい。
「さだまさし」の歌にこんなのがある。
いのちの理由
私が生れてきた訳は 父と母とに出会うため
私が生れてきた訳は きょうだいたちに 出会うため
私が生れてきた訳は 友達みんなに 出会うため
私が生れてきた訳は 愛しいあなたに 出会うため
春来れば花自ずから 咲くように
秋くれば葉は自ずから 散るように
~中略~
誰もが生きているんだよ 悲みの海の向こうから 喜びが満ちて来るように
私が生れてきた訳は 愛しいあなたに 出会うため
私が生れてきた訳は 愛しいあなたを護るため
歌としては悪くないしこんな風に自分の人生を語れる人は幸せである。
けれど「命は私もしくは自我より先だ」と仏教では教える。私はとか俺がとか人は自分を主語にして語るが、今ここにいるこの「私」の誕生は私の意志に先だつ。ある時気がついたらそこにいたのである。その気がついた存在を私と呼んだのだが中味は正体不明である。その正体不明の生き物に名がつけられ私が俺がと叫ぶのである。
仏教はその正体不明の究明にある。
道元禅師の「仏道をならふというは自己をならふなり。自己をならふというは自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」であろうか。
そもそも私の始まりはどこなのか?
命は父母、祖父母、曽祖父母と遡(さかのぼ)るが無始としか言いようがなく無始であれば無終だという。
とは言っても社会内存在としての私【何年何月何日どこかで生れ臨終を迎えて戸籍が抹消されるまで】はせいぜい百年前後の生存【この世】を指す。けれど仏教はそれだけにとどまらず、この世に誕生する前の生も戸籍抹消後の生もあると説きそれを宇宙内存在の命だという。
自分の意識が及ばない世界、この現在の底が限りなく深いことを仏教では宿業と呼ぶ。
「宿」とは私の意識が届かない無限の深さだという。
命はながさではなく深さで感じるものだと今しみじみ思う。
自分が男【あるいは女】に生れたこと、日本という国のこの時代に生まれたことも宿業である。
自分の親を親として持った【持たされた】こと、自分の子を子として持った【持たされた】ことも宿業である。
親ヤガチャ子ガチャと茶化すような浅い世界ではなさそうである。
偶然は必然という言葉もある。
ごちゃごちゃと書き連ねたが、ざっくり言えば仏教は人間に生れてよかったなあと喜ベる教えなのである。葬儀の道具ではない。
令和6年夏季号より