『では人の言うことが真実だ、あるいは本当だと聞く人はどこで判断するのであろうか。私は言葉の純度にあると思う。言葉の純度とは語られる言葉と語られる時の心情の一致度にある。語られる言葉が心情に近ければ近いほど言葉の純度が高いと言いたい。』
今年の梅雨入りは早かったが大名竹の筍(たけのこ)も妙に早かった。筍は買うものではなく採(と)る【盗(と)る】ものだ、というのが私の勝手な持論である。さすがに孟宗竹は道具なしには採れないので気が引けるが、その他のコサン竹・真竹などは手足でもげるので山菜感覚である。
ずっと昔、小学三年生だった長男を連れて旧薩摩郡入来町の八重山近くでコサン竹山を見つけ採ることにした。ずい分人里離れていると思って入った竹林は人家のすぐ裏山であった。長男に「ドロボウするから声を立てるな」と耳打ちすると「ウン」と目で答える。二人で採れるだけ盗って車へ戻り、すばやく立ち去る。かなり離れてから息子が大きく息をはいて「父さんドロボウって疲れるね!」と言った。この季節になるといつも思い出す。
五月の中頃から朝昼のテレビのワイドショーはアメリカンフットボールの悪質タックルの話題でにぎやかである。赤いユニホームの選手が青のユニホームへ突っ込む場面を何回も繰り返し見せられるとだんだん自分がタックルを受けているようで気分が悪くなる。この競技のルールもよく分らない私はおもしろさも感じられない。ただあの悪質夕ックルを受けた関西学院大学の謝罪要求に対して日本大学側が「乱暴行為を教えることは全くない、指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きた」と回答した(五月十八日・南日本新聞)のに興味が湧いた。
この頃日本では得体の知れない言葉が流行している。昨年の春頃から忖度(そんたく)が幅を利かせ、森友学園、加計学園問題は今もって終息していない。どっかの県知事さんが「ウソは人を卷き込む」と怒れば「私共が県へウソを言っていました」と加計画学園側が言い、誰の援護なのか忖度なのか、日本国中がウソに覆われている気分になる。ウソはドロボウの始まりと言うけれど、ドロボウとは付き合ってもウソツキとは付き合うなと言いたくもなる。
元に戻ろう、乖離の話であった。広辞苑によれば「そむき離れること。はなればなれになること。」とあって、用例として「人心の乖離」「理想と現実の乖離」と記されてある。ついでに忖度は「他人の心中をおしはかること。推察。」とあり「相手の気持を忖度する」の用例があった。つまり日本大学側の監督・コーチは我々の指示の言葉を選手が間違って受け取って、あの悪質タックルが生じたと説明しているのである。
ああ、こういう理屈も成り立つなあ、と思わないでもなかった。でもなぜか直接インタビューしたマスコミの人達や関西学院大学の関係者は監督側の言い分には納得されなかった。あの宮川選手[悪質タックルの当事者]が記者会見して語った「相手をつぶせ」などの指示を「ケガをさせろ」と解釈した方に真実を見たらしい。また、関東学生連盟の規律委員会も選手、監督・コーチ等に聞き取り調査をした上で「監督の指示があった」と認定して処分を発表している。つまり関東学連も選手の方に真実ありとしたのである。
何が両者を分けるのか。「言葉」とは「意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの。」とされ、これも広辞苑にある。また「意味」を引くと「ある表現に対応し、それによって指示される内容。」とある。従って乖離とは「言葉」は両者共に「QBを潰せ!」であったが「意味」としては選手には「ケガをさせろ!」と届き、コーチは「思い切りやってこい!」だったと言う。言葉によるコミュニケーションには文脈というか流れがあるから、ある部分だけ切り取ると「言った」、「言わない」になってしまうのかもしれない。そもそも言葉は意味だけを伝達するものなのだろうか。また意味は一色(ひといろ)なのだろうか。「あなたなんか大嫌い!」が大好きの表現であったり「あなたは親切な人ですね」が「お節介を焼くな」の時もある。不良グループの兄貴分から「可愛いがってやれ!」と言われて頭をなでる弟分はいるまい。意味は一色でない上にある種の感情も乗せてくる。
では人の言うことが真実だ、あるいは本当だと聞く人はどこで判断するのであろうか。私は言葉の純度にあると思う。言葉の純度とは語られる言葉と語られる時の心情の一致度にある。語られる言葉が心情に近ければ近いほど言葉の純度が高いと言いたい。純度が高いほど人に届き易いというのが今の仮設である。ウソは極めて純度の低い言葉である。言葉は人を騙すだけでなく自分自身も騙す。本当の言葉を言わなければ本当の人になれないと聞いている。心して生きたい。残り少ないけれども。
噴煙を 鳥の横切る 大暑かな あきら
平成30年夏季号より