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季刊誌「せおと」-fileNo.018-金を盗んだ人を「あいつは泥棒だ」と語る人がいる。なぜ悪口に聞こえてしまうのだろう。

fileNo.018金を盗んだ人を「あいつは泥棒だ」と語る人がいる。なぜ悪口に聞こえてしまうのだろう。

『事実を語るな 真実を語れ』 「事実を語るな、真実を語れ」を初めて聞いてから、もう20数年になる。最初聞いた時から、事実と真実とどう違うのか、事実を語ってどこがまずいのかうまく呑み込めずにいる。語った人(すでに故人ある)と場所を記憶しているので、この言葉にかなり衝撃を受けたのであろうが前後の話は何も残っていない。この頃になってこの言葉の出典は「法句経」というお経の本だと知った。もちろん知ったからといって何かが分かったわけでもない。言葉は解らないまま胸に宿して置くと、いつの日か「ああ!そういうことか」と腑に落ちる時が来るものであるが、今もってそれもない。止むを得ないので少々強引でもこじつけでもいい、と肚を括って論を進めることとしたい

広辞苑によると、真実は「うそ、いつわりでない本当のこと。」とあり、事実は「真実の事柄。ほんとうにあった事柄。」とある。さっぱり区別をつけ難い。ただ事柄(出来事)は観る人の主観でずい分違ったものになる。大きい例で言えばイラク戦争だって、アメリカは世界平和・正義の戦いといい、イラク側は侵略だったという。日常の生活の場も似たり寄ったりで、争いはいつも正義は我にありで、間違っているのはいつも相手である。この年齢になると少し分かってくるが、つくづく他人の評価は自分の評価だと思う。あの人はつまらない人ですよの表現は自分の人をみる目も一緒に曝しているのである。また、あの人は「ずるい人だ」と評価する人は、チャンスさえあれば自分もしたかった「ずる」なのであろう。

話は少しそれるが金持ち定義(内田 樹)というのを紹介したい。ひとつは金のことで心を煩わされない人間、ふたつ目は自分の不幸はおもに金がないせいであるというふうに考えない人間、だそうである。つまり金額の多寡ではない。世に億万長者という表現がある位だから、金持ちといえば金を一杯持っている人を想像してしまうが、額がいかに大きかろうと金で心を煩わされている人を金持ちとは呼ばないらしい。年金暮らしでも、明日の末に困っていても「ま、なるようになるさ」と構えているのを金持ちといい、俗言の「金持喧嘩せず」とはこのことであろうか。

人は自分の物差し(価値観)でもって他人の行動や事柄を評価しているのだと思うが、その物差しそのものの正当性を考えたり、修正は簡単には起こらない。

話をもとに戻すが、事実がほんとうにあった事、ありのままであるならば公然と語られても何の不都合もない筈である。けれども日頃の日暮しの中で「事実」が語られるのに何か悪口ふうに聞え、後味の悪さは何なのか。

例えば他人の金を盗んだ人がいる。その人を泥棒だと語る人がいる。泥棒したことは事実だから、ありのままに語られて何の問題もなさそうだけれども、第三者が聞くと悪口になるのは何故なのか。そこに語る人の「何か」が入る。その「何か」が悪口に聞え、後味の悪さになるのではなかろうか。意識しているかどうかは別にして「あの人は泥棒だ」と語る人は「私は泥棒なんかしない、正直ないい人間です」と闇に語っていることになる。自分の自慢や妬み、そねみ、羨しい根性等を他人の評価に名を借りて語るのである。事実を語ることには何か夾雑物が入る恐れがあって先達は戒められたのかもしれない。では「真実を語る」とは何なのか。私はあるがままにプラス「何か」であると思う。その何かのところに「暖かさ」「悲しさ」「慈しみ」「いとおし」などを入れ込んでみたらと思う。

語られる言葉も大事であるが、語る人から発せられる非言語的メッセージ(表情、身ぶり、声など)はもっと捨て難い。ことばには匂い、色、味、波動がある、単なる音ではない。

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